身体と言葉をもって行われる種類の崇拝行為を、イスラームの基幹と呼びます。それはイスラームという宗教がそれを基礎にして成立し、かつその実践をもって人がムスリムかどうかを判断される基準となるものです。その基幹とは以下のようなものです:
• 二つの信仰証言(シャハーダ):イスラームにおける言葉に関連した基幹です。
• 礼拝(サラー)と斎戒(サウム):イスラームにおける二番目と四番目の基幹であり、いずれも身体に関連した崇拝行為です。
• 義務の浄財(ザカー):三番目の基幹で、義務の喜捨をするという身体に関連した崇拝行為です。
• ハッジ(マッカ巡礼):身体と言葉いずれにも深く関連した、五番目の基幹です。また財産の出費も伴います。
イスラームはムスリムに対し、ただ理由もなくこのような崇拝行為の実践を課したわけではありません。これらの行為によって、彼らの魂が浄化されるためなのです。礼拝(サラー)について、至高のアッラーはこう仰いました:
-実にサラー(礼拝)は醜行と悪事を妨げる。,(クルアーン29:45)
また義務の浄財(ザカー)について、至高のアッラーはこう仰っています:
-彼らの財産から施しのためのものを取り、それでもって彼らを(罪から)清め、浄化してやるのだ。,(クルアーン9:103)
また斎戒(サウム)に関しては、至高のアッラーはこう仰います:
-信仰する者たちよ、あなた方以前の者たちにも定められたように、あなた方にも斎戒(サウム)が課せられた。(それによって)あなた方は敬神の念を獲得するであろう。,(クルアーン2:183)
斎戒(サウム)は自制心や自己規律の精神を教えると共に、人が欲望の中に溺れてしまわないように訓練する効果があります。預言者ムハンマド(彼にアッラーからの祝福と平安あれ)はこう言っています:
「アッラーは、下卑た言葉や行いを慎まない者がその飲食を放棄することをお受け入れにはならない。」(アル=ブハーリーの伝承)
またハッジ(巡礼)について、至高のアッラーはこう仰っています:
-ハッジ(の季節)は周知の数ヶ月 である。それでその間にハッジをしようとする者は、淫らな言動や罪深い行いや言い争いをしてはならない。,(クルアーン2:197)
イスラームにおいて崇拝行為はムスリムの統一を維持すると共に、優れた作法の改善においても大きな役割を果たしています。以下にイスラームの基幹をご説明しましょう:
第一番目の基幹:二つの信仰証言(シャハーダ)
これは「アシュハドゥ・アッラー・イラーハ・イッラッラー、ワ・アシュハドゥ・アンナ・ムハンマダン・アブドゥフ・ワ・ラスールフ(私はアッラーの他に真に崇拝すべきものはなく、ムハンマドはそのしもべであり使徒であることを証言する)」という証言のことです。これはイスラームにおける言葉に関連した基幹ですが、この証言にはそれに則った信仰と行為も要求されます。またこの証言こそが、イスラーム改宗の鍵となります。
一番目の証言「アッラーの他に真に崇拝すべきものはなし」の意味:
これはいわゆるタウヒード の言葉です。そしてこの概念のもとにアッラーは被造物を存在せしめ、天国と地獄を創造したのです。至高のアッラーはこう仰いました:
-そしてわれ(アッラーのこと)はジン(精霊的存在)と人間を、われを崇拝させるべくして創造したのだ。,(クルアーン51:56)
そしてこの概念こそは、アダムから最後の預言者ムハンマドに至るまでの全ての預言者と使徒たち(彼らにアッラーからの祝福と平安あれ)が人々をそこへといざなってきた信仰なのです。至高のアッラーはこう仰いました:
-あなた以前にわれら(アッラーのこと)が遣わした使徒の内で、「われ(アッラーのこと)の他に神はない。だからわれを崇拝するのだ。」という啓示を与えなかった者はいなかったのである。,(クルアーン21:25)
この証言の最初の部分「アシュハドゥ・アッラー・イラーハ・イッラッラー(私はアッラーの他に真に崇拝すべきものはないと証言する)」は、以下のような意味を含みます:
• アッラーが全ての存在の創造主であること。至高のアッラーはこう仰いました:
-かれこそがアッラー、あなた方の主である。かれ以外に崇拝すべきものはない。かれは全ての創造主であるのだ。ゆえにかれを崇拝せよ。かれは全てにおいて(そのしもべから)委任されるべきお方なのである。,(クルアーン6:102)
• アッラーが存在する全ての存在の真の所有者であり、かつその諸事を司る存在であること 。至高のアッラーはこう仰っています:
-かれにこそ創造と全ての権限は属する。万象の主アッラーの崇高さよ。,(クルアーン7:54)
• アッラーのみが崇拝されるに値するということ 。至高のアッラーはこう仰っています:
-アッラーにこそ、天にあるものも地にあるものも属しているではないか?アッラーを差し置いて(彼らがその)併置者(と見なすもの)を拝している者たちは、(実際のところ)それらに従っているわけではない。彼らは実に(根拠なく)憶測しているに過ぎない。彼らは嘘をついているのである。,(クルアーン10:66)
• その美名と完璧な属性はアッラーにのみ属し、いかなる欠陥からも免れているということ 。至高のアッラーはこう仰っています:
-そしてアッラーにこそ美名が属するのであるから、それをもってかれに祈願するのだ。かれの美名をないがしろにするような輩は放っておくがいい。いずれ彼らは自分たちが行っていたところのもので報いを受けるだろうから。,(クルアーン7:180)
この証言の条件:
この証言はただ単に発声するだけでは、アッラーに受け入れられるものとなるに十分ではありません。それは天国の扉への鍵ではあっても、それを有効に作動させるためにある一定の溝を形作らなければならないのです。この証言がアッラーに受け入れられるものとなるための条件は、以下に示す通りです:
1.知識:これは、アッラーを差し置いて崇拝されているあらゆる存在が、虚妄であることを知ることです。預言者や使徒、天使などであろうと、アッラー以外に真に崇められるべき存在はありません。礼拝(サラー)や祈願、犠牲や誓願など、あらゆる種類の崇拝行為はアッラーにのみ向けられなければならないのです。
ゆえに、何らかの崇拝行為をアッラー以外の何かに向けるという行為は、一種の不信仰なのです。これは例え証言の言葉を口にしていたとしても、関係ありません。
2.確信:つまり二つの証言の意味を、心から確信することです。確信の反対は疑惑ですが、この信仰において疑惑やためらいなどがあってはなりません。至高のアッラーはこう仰いました:
-信仰者というものはアッラーとその使徒を信仰し、その後(その信仰に)疑念を抱くことなく、財と生命をかけてアッラーの道に奮闘する者たちのことである。彼らこそは真に信仰する者たちである。,(クルアーン49:15)
3.受容:証言の内容は完全に受け入れ、それを拒む気持ちがあったりするべきではありません 。 至高のアッラーはこう仰いました:
-彼らは実に「アッラーの他に真に崇拝すべき何ものもなし」と言われれば、奢り高ぶったものだったのだ。 ,(クルアーン37:35)
4.服従:証言の内容が要求することに従い、それに沿って行動することです 。そしてアッラーが命じることを行い、かれが禁じることを回避しなければなりません。至高のアッラーはこう仰いました:
-そしてアッラーのみに真摯に向かって服従し、イフサーン の徒である者は堅固な取っ手を握り締めた者。そして全ての物事の結末は、アッラーへと還り行く。,(クルアーン31:22)
5.真摯さ:証言を口にするにあたって、真摯でなければなりません 。至高のアッラーはこう仰っています:
-彼ら(アッラーの使徒の命に背いて出征しなかった者たち)はその舌で、心にもないことを語っている。,(クルアーン48:11)
6.崇拝の誠実さ:つまり全ての崇拝行為を、アッラーのみに誠実に捧げることです 。至高のアッラーはこう仰いました:
-そして彼らは純正な宗教の徒として、彼らの宗教をアッラーのみに真摯に捧げて崇拝し、サラー(礼拝)を行い、ザカー(浄財)を施すことしか命じられてはいなかったのだ。,(クルアーン98:5)
7.敬愛:この証言をする者は、それとそれが要求するもの全てを愛さなければなりません。つまりアッラーとその使徒(彼にアッラーからの平安と祝福あれ)、そしてその正しいしもべたちを愛し、彼らに敵対する者には敵対する必要があります。また例えそれが自分の私欲と一致しないことであっても、アッラーとその使徒への愛情を何よりも優先することが求められます。至高のアッラーはこう仰いました:
-言え、「あなた方の父親や子息、兄弟姉妹や配偶者、近親やあなた方の稼いだ財産、またあなた方が不景気になることを恐れている商売や、あなた方の意に適った住まいがアッラーとその使徒、そしてその道における奮闘よりもあなた方にとって愛すべきものであるのならば、アッラーが事を決行されるまで待つがよい。アッラーは放縦な民をお導きにはなられないのだ。」,(クルアーン9:24)
またこの証言は、アッラーのみが法を定める権威を有するということを認めることにも繋がります。崇拝行為に関することであろうと、個人あるいは社会間における人間関係に関することであろうと、そこに違いはありません。
何かを合法としたり非合法としたりする権威は、アッラーにのみ属します。またその使徒(彼にアッラーからの平安と祝福あれ)は、いかなるアッラーの命令も隠蔽したりすることがありません。至高のアッラーはこう仰いました:
-使徒が命じた物事を行い、彼の禁じた物事を避けよ。,(クルアーン59:7)