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尊敬される著名な経済学者たち による、信頼ある評論と視点を伴った利子の説明、そしてその支払いの正当化を試みる洪水のような意見の数々は、何かが間違っているのではないかという、人々へのしるしであると言えるのではないでしょうか。経済思想史においては、利子の正当化を試みる以下のような理論を見出すことが出来ます:





1.「無色」論(ベーム・バヴェルクによる呼称):これはアダム・スミス、リカードなどの初期経済学者らによって提唱されました。この理論は、資本の粗利益と利子を混同するなど、多くの欠点がありました。リカードはさらに、すべての資本利益を労働に帰属させましたが、彼はなぜか、主張される価値の支払いを受け取るのは労働者ではないことに気が付きませんでした。





2.節制論:このような理論は現れては消えて行きました。経済学者たちは「節制」が「待機」(マーシャル式)のような別の意味合いを持つ言葉にたびたび変化するため、適した言葉ではないことに気付きました。利子の本質とは、人が即座の消費を「待機」または「節制」することにより受け取る料金のことです。この理論は、事実に反して貯金が利子の一機能であると捉えたために破綻しました。





生産論:この理論の推進者たちは、生産こそが資本において固有のものであり、それゆえ利子とは単にその生産に対する支払いであるとします。セイにより提唱されたこの理論は、資本が余剰額を生み出すことを想定しますが、その主張を支持する根拠は存在しません。主張することの出来ることとしては、資本に対する対価として価値が発生することですが、彼らによる利子の正当化の本質のように、余剰や超過分が創り出されたことを証明することは出来ないのです。無論のことながら、利子を分析するとこれらの理論が金銭的要素を完全に無視していることが分かります。





使用論:「ベームは、各資本の他に、独立した価値を有する独立した経済による『使用』があったという想定の妥当性を否定しました。彼はさらに、初めから資本の独立した使用というものはただ存在せず、したがって独立した価値を有することもなく、それに寄与することによる『余剰価値の現象もない』ことを強調しました。そのような使用を想定することは、すべての事実と矛盾する不当な虚構を捏造することなのです。」





報酬論:この論を支持する経済学者たちは利子について、資本家の「生産活動」に対する報酬であると見なします。英国、フランス、ドイツの経済学者によって支持されてはいますが、この理論に関するコメントは必要ないでしょう。





折衷(生産論と節制論の組み合わせ)論:これについて、アフザルッ=ラフマーンはこのように記しています:





この見解の起源は、過去と現在の経済学者によって提示・議論された利子の学説に不満を呈したことに端を発したようです。この主題においてはただひとつの説も納得行くものが得られなかったため、人々はいくつかの説の要素を組み合わせて問題の解決に務めたのです。





近代結実論:ヘンリー・ジョージがこの説の提唱者ですが、実体が薄いために、全くと言って良いほど追従者が現れませんでした。





修正節制論:シェルウィーンにより提唱された独特の理論でしたが、ほとんど影響力を持ちませんでした。





オーストリア論(打歩説または時差説):これはベーム・バヴェルク自身が提唱した理論です。この説によると、利子は「現在と将来の財の価格差により発生する」とされます。カッセルはこの説の詳細な批評をしています。結局は高級な「待機論」に過ぎませんでした。





通貨論(貸付資金説、流動性選好説、貨幣数量説、アセット・アプローチ):最近になり、経済学者たちは利子問題に通貨の要素を取り入れて強調するようになりました。しかし現実には、なぜ利子が支払われるのか、という点から、効果的な利子率を定めるものは何か、という点に移行して来ています。「ロバートソンによると、流動性選好説における利子は、変動に対するリスクプレミアムに過ぎず、私たちはそのことについて確信さえ得ていません。それは利子を宙に浮かせるものに過ぎません。」この説と同じ分類の他説も、似たような批評を受けています。





搾取論:社会経済学者は、利子は搾取以外の何でもないと常に見なして来ました。資本論の「創始者」であるアダム・スミスとリカードは、あらゆる商品価値の根源は労働量であると唱えました。もしそれが真実なら、あらゆる支払いは労働に対して支払われるべきであり、利子は搾取以外の何でもないことになるのです。





複数の箇所において、アフザルッ=ラフマーンは利子に関する様々な理論に対しての卓越した結論を導きだしています。彼はこう述べています:





利子という現象における歴史的発展の批評的研究により、利子は生産のある独立した要因に対して支払われることが示されていますが、それは待機、延期、節制、使用などとは呼ばれません。しかしこれらすべての説は、なぜ利子が支払われるべきなのかについて答えられておらず、証明もされていないのです。一部では待機について、また一部では節制や延期の必要性について指摘しますが、それらのいずれも問題の答えを提供してはいないのです。待機や延期、または節制の必要性も、あるいは資本の生産の単なる使用でさえ、資本生産に対する雇用の支払いに利子が必要であることを証明するには至らないのです。その上これらの説は、いかに変動する要素が利子率のような固定された要素を決定するのかについてさえも答えられていないのです。どうしてそのような説を合法化、または支持できるでしょう?





後に、彼はこう記しています:





限界生産論同様、通貨論は、なぜ利子が支払われるべきなのか、という質問に答えようとする試みすらしていないのです。それらは単にこの質問を無視して価値論に逃避しているのです。それらは資本の価格は他の全てのもの同様に、需要と通貨の供給によって決定されるのであると述べます。しかし、それらはあたかも価値論は交換の問題、そして利子論は分配の問題といった基本的な二つの問題の違いを忘れてしまっているかのようです。 貸付資金説、流動性選好説はどちらも基本的には利子の需要と供給に関する説であり、貸付資金と通貨それぞれの需要と供給についての説明をするものです。しかし、それは利子現象を正当化するものではありません。たとえ資本が富の創造に対する寄与から適切な報酬を受ける権利があるとしても、「それは増加した国家の富の中から寄与した分だけしか分け前を得ることが出来ないのです。それはあらかじめ決められた量のものしか受け取れず、実際の生産量とも無関係なのです。」ベーム・バヴェルクによると、これらすべての理論の研究から、「分岐する三つの重要な利子問題の概念が明らか」になりました。生産論を代表する第一グループは、利子問題を生産問題として捉えます。搾取論を主唱する社会主義者は、利子問題を分配問題として捉える第二のグループ、そして通貨論を支持する第三グループは、利子問題を価値問題として捉えます。利子現象としての浸透性から勘違いされていますが、これらすべての説が、なぜ利子が支払われなければならないのかについては避け続けてきたことに疑いの余地はありません。彼らは待機や節制、あるいは生産性や労働価値、価値の制定についての議論にすべての労力を費やしはしましたが、利子制度の起源や正当性に関しては完全に口をつぐんできたのです。


利子による害悪


経済学者たちは利子の支払いについて様々な正当化を試みますが、本当のことを審査するには、利子の持つ影響がどんなものなのかを学ばなければなりません。何かが神によって禁じられているとき、それは禁じられたものに全く有益性がないということを意味しているのではありません。実際、禁じられたものの中から何らかの有益なものを見出すことも出来るでしょう。たとえば、神はクルアーンの中でアルコールについてこう述べます:





 “彼らは酒と、賭矢についてあなたに問うであろう。言ってやるがいい。「それらは大きな罪であるが、人間のために(多少の)益もある。だがその罪は、益よりも大である。」”





(クルアーン2:219)





それゆえ重要な点とは、何かの有益性について問うことではなく、何かの害悪がその有益性を上回るかどうかを見極めることなのです。したがって経済学者たちが、利子の支払いに関する正当性のヒントを見出すことは出来るかも知れませんが、これから考察されるように、それが利子による害悪を上回ることは絶対にないのです。





たとえ利子が、生産要素に対するある種の支払いであると見なされたとしても、それはどのような生産要素に対する支払いからも切り離されるべき独自の性質を有しており、そのことは非常に憂慮すべき結果を生み出しています。





まず、利子は所得の不公平な分配につながります。このことはある三人の例を見れば分かります。三人が全員年収を使い切るとして、一人は10万円、一人は1万円の貯金があり、そしてもう一人には何の貯金もなかったとします。年率10%の利子により、一人目の貯金額は年度末に11万円、二人目のは1,100円、そして三人目は依然としてゼロとなります。同じことが翌年も続くと、一人目は121,000円、二人目は12,100円、そして三人目は同じくゼロ円です。これだけを見ても、彼らの間の差が年々開いていくのを見て取ることが出来ます。こうした好ましくない筋書きは、裕福な人物が貯金をした際にはさらに顕著になります。例えばその人物が、毎年の年度末に10万円を追加したとしましょう。翌年、彼の貯金は11万円になり、さらにその年度末にも新たな10万円を加えると、二年後には231,000円となっていきます。もしもこの収入が、生産におけるプラス要素から来るのであれば良いのでしょうが、現実的にこの場合はそういった主張をすることは出来ません。人々が利子によって得るカネは、それを借りた人物によって浪費、紛失、あるいは窃盗されたものかも知れませんが、それでも人は利子を支払わなければなりません。また、損失を出す事業に投資されたことによって、何も生産しないかもしれません。しかし、それらすべてはあまり大したことではありません。その「生産要素」が何かを生産する、しないに関わらず、支払わなければならないのです。これはカネの、そしてカネに対する支払いの独自の一面なのです。これが公平であると言うことは誰にもできず、それによる結果として、所得の不公平な分配が起きるのです。





さらに、収入の分配は時間と共に偏りを増してきます。ある個人が百万単位、またある個人が百、あるいは千単位で取引していることを想像してみてください。彼らの間の利子の差は、年々広まり続けるでしょう。言い換えると、富裕層には富が集中し、貧困層はさらに貧乏になるという貧富の格差が発生する訳です。この方程式には、毎年増加する利子を払い続けている負債者は加えられません。この場合、利子が上がり続けることによって彼らの収入はどんどん圧迫され、偏った所得分配にさらなる拍車をかけるのです。





ある種の人々は、所得の不均衡な分配はさほど大きな問題でないと主張するかもしれません。特に、消費の必要性を強調するマスコミの喧伝から来る、貧しい人々に対する精神的影響だけでなく、市場全体に対する非常に重要な影響があるのです。市場経済においては、いかにある製品が社会に必要なものであっても、それは生産高を支払うことの出来る人々を対象に生産されます。裕福な人々がSUV車などのガソリンを浪費する車を要求し、多額の支払いをいとわないのであれば、(いくら保守層が抗議したとしても)それらは生産されるのです。収入差が開けば開くほど、その分より多くの資源が富裕層の要求に充てられます。資源はある程度「固定」されているため、貧困層へはより少量が充てられることになるのです。さらに、貧困層の消費用に充てられる少ない資源は全体の供給数を減らし、他の商品の値段を吊り上げ、貧困層全体の経済状況をより悪化させるのです。多くの医療機関は、例えば美容整形手術のような、必要不可欠とは言い難い、富裕層に特化したサービスを提供します。しかし同時に、貧困層に特化し、彼らの必要性を満たすような医療機関のサービスを見い出すことはとても困難です。市場主導の経済において、もしも彼らがそういった必要不可欠なサービスを支払うことが出来たなら、長期的にそうした医療機関や、必要性に応じた資源や低価格の商品が増えるでしょう。(加えて、所得の格差は民主主義の健全性にも強い影響を及ぼしていますが、このことについては当投稿の範疇を超えるため、ここでは言及しません。)





それに加え、負債を抱える貧困層にとって、利子の負担は社会的・経済的な前進を極めて困難な状況とし、貧富の差をさらに拡大させます。どのような個人にとっても、利子そのものだけでも困難な状況をもたらします。しかし、利子の支払いこそが、多くの場合は滞納せずに支払い続けることを不可能とするような、人の負債が標的の対象とされるのです。それは偽の生産要素であり、富裕層がより裕福に、そして負債者には大きな負担を課すことを実現します。読者の全員は、世界で最も裕福な国家であるアメリカが、いかに負債国家に成り果てたかについて熟知しているかも知れません。これは下流層だけでなく、中流層をも影響を及ぼしています。一部の哀れな人々は、クレジットカードの支払いで最低限度だけを払っても、事実上その残高を支払い終えることが出来ないことに気付いていません。1しかし、もちろんそれが一番こたえるのは一番貧しい人々なのです。事実、個人が貧しければ貧しいほど、その信用格付けは悪化し、高い利子率の支払いが義務付けられ、システム上不利な状況にされるのです。ミルザ・シャハジャハン著の Income, Debt and the Quest for Rich America: The Economic Tale of Small and Mid-Sized US Cities (収入、負債、そして富めるアメリカへの旅:アメリカ中小都市の経済話)は、いかに負債とそれに伴なう利子が「アメリカ中流階級」を苦しめたかについての研究成果です。値下がりを続ける作物により借入を余儀なくされている小規模農場主たちの苦境は、そこに詳しく記録されています。彼らの多くは、利子の支払いが困難なことから、所有する貴重品を質に入れたり、何世代にも渡って受け継がれてきた農場を引き払ったりしているのです。シャハジャハンは、一部の貧困層が年収の15%以上(大半は8%から12%)を利子の支払いのだめだけに費やしていることを発見しました。それだけでなく、債権者によるたびたびの脅迫電話という苦悩があることは言うまでもありません。シャハジャハンは結論としてこう述べています:





貨幣、そして負債による重荷は共に、多くの負債者にとっては返済のための一生続く苦労が強いられました。1990〜1993年の負債を持つ一世帯あたりの平均負債額は$32,493ドルで、それらの世帯の年収の100%に相当したのです。我々の独自の調査による1990〜1993年の一世帯あたりの平均負債額の見積りは$12,571でした。こうした規模の負債は、アルバイトや低所得と合わせると意気消沈させるものであり、打ちのめされるような精神的環境を創り出すのです…





一部の世帯では、利子の支払いに年収の15%を費やしています。この高利子率は、所得の大部分を蝕む主要因となっているのです…





中規模の都市における何百万件にも及ぶ世帯の大半は、日々の糧を得るだけのために努力します。彼らのうちの数千戸は、家族への満足な生活の供給や子供たちの高等教育の費用さえもままならないのです。彼らは負債に漬かった人生を送り、負債と共に死ぬのです。こうした状況は、完全な人生を持たなかったという感情を彼らに抱かせるのです…





これらの世帯は経済的隷従の状態に陥っており、そこからの明らかな脱出口は制度的影響力によって遮断されています。技術の習得や高等教育を受けることは、本物の機会へと続く扉を開く鍵に成り得ますが、高等教育は高額であり、これらの都市に住む世帯の大半にとって手の届かないものです。これらの世帯は何かの分野において卓越する機会も、望む地位を手に入れることもできないままにされてしまいます。これこそは、我々の国家の中小規模の都市における、労働者階級の苦境の現状なのです。





国際レベルにおいては、より破滅的かつ危険な状況です。国際的な視点から見た場合、利子は殺人的とも言えることがはっきりしています。発展途上国における人々の負債への隷属は非常に深刻であり、彼らは健康維持に不可欠な栄養補給すら犠牲にしなければならない程なのです。利子という近代資本主義の「工作」によって、発展途上国では数えきれない程の子供たちが死んでいます。一部のアフリカ諸国の政府では、保健や教育よりも、負債の返済により多くの資金を注ぎ込まなければならないような状況なのです。





こうした背景において、UNDP(国連開発計画)は、世界でも最も貧しい20ヶ国の対外債務が免除された場合、それによっておよそ2千万人の命が救われるだろうという観測を示しました。別の言い方をするなら、西暦2千年までに週に平均13万人の子供たちの命が、帳消しにされなかった負債によって奪い続けられたのです。





ロンドン市長ケン・リビングストンは、アドルフ・ヒトラーによって殺された人々の総数よりも、グローバル資本主義によって毎年殺され続けている人数の方が多いと主張しています。彼は数百万人の死が、負債の軽減を拒否したIMF(国際通貨基金)と世界銀行の原因であると責めたのです。スーザン・ジョージによると、1981年以来、毎年1,500万人から2,000万人の命が無駄に失われたのは、「途上国の政府が負債を返済するために、きれいな飲料水と保険プログラムの縮小を余儀なくされたためである」としています。





増加する利子が重くのしかかる負債は、主権と統制の喪失を意味するため、いかなる国家にとっても危険なのです。  このような側面は、偶発的なものではありません。発展途上国、特にその中枢にいる者たちや、その腐敗した支配者たちは、彼らの積み上げてきた負債の問題に関して無実ではないのです。同時に、もし彼らが借用して債務状態に陥らなければ、そうなるべく彼らに対して重圧がかけられるのです。コーフィールドは述べています:





世界銀行はそうあり続けてきたのです。返済事業は貸与に取って代わるようになってきています。その結果、銀行からの借用側は負債が蓄積し、徐々に主権を失っていきました。いかなる債権者でさえ、負債者に何らかの干渉をすることなく返済を待ち続けるというようなことはしません。過去に、巨大勢力は負債者を思い通りにするためには軍隊を用いることさえ躊躇しませんでした。米国人経済学者ヘンリー・カーター・アダムスは、1887年の名著「公債」でこのように書いています:「対外債権の授与は積極的な外交政策の確立における第一歩であり、特定の状況下では、それは必然的に侵略と占領を意味するのである。」





銀行による債務者への待遇はそこまで粗野ではありません。海軍を出動させる代わり、彼らは当該国がいかに金融を管理するのか、法律を作るのか、人々へどのようなサービスを提供するのか、そして国際市場でどのような振る舞うのかさえ指導するのです。彼らの説得力はとても強力で、その普遍的確信から、借り手を葬り去ろうと思えば、あらゆる大手の国有・国際勢力はそれに従うため、銀行はその過剰な貸付―その任務の根本的矛盾から生じるもの―によって自らを強化し、借り手からはそれを枯渇させるのです。





ジョン・パーキンスによる、今や有名な Confessions of an Economic Hit Man (放題:エコノミック・ヒットマン:途上国を食い物にするアメリカ6)では、現代の経済的陰謀が暴露されています。有能なエコノミストだった彼は、自身の任務についてこう記しています:





それらすべてのプロジェクトの闇の部分は、それが契約する側にとって大きな利益をもたらし、一握りの裕福かつ影響力を持つ一族を喜ばせる一方、長期に渡る財政依存を保証し、それゆえ世界中の政府からの政治的忠誠を得る、ということなのである。その貸付金の額が大きければ大きいほど良いのだ。負債国家に課された負担が、市民の健康、教育、その他の社会福祉事業を数十年先まで窮乏させるであろうという事実は、考慮すらされなかったのである。





パーキンスの活動は、スティーブン・ハイアット編集の A Game as Old as Empire: The Secret World of Economic Hit Men and the Web of Global Corruption(帝国に勝るとも劣らず古い歴史を持つ計画:エコノミック・ヒットマンと世界的腐敗ネットワークの隠された世界)によって受け継がれています。ハイアットはこう記しています:





負債は第三世界を支配下に置き続けるのである。生き残るための援助や貸与金の償還期限延長、また借り換えに依存する彼らは、IMFの構造調整プログラムと世界銀行の諸条件によって、経済の構造改革と法の改定を強いられてきたのである。彼らの発展は忘れられているのだ。





現在の負債の状況は、利子の主要な役割によって、潜在的に世界全体を破滅的な状況に導きかねません。Global Trends 2015(2015年世界情勢予測)の中で、米中央情報局(CIA)はこう認めています:





グローバル経済の上げ潮は、多くの経済的勝者を生み出しますが、それがすべてを救済する訳ではありません。それは本国と外国で確執を引き起こし、既に存在している地域的勝者と敗者の格差をさらに広げるのです。(グローバリゼーションの)進化は緩やかなものではなく、慢性的な財政不安と経済格差をもたらします。それに遅れをとる地域、国家、集団は経済の沈滞、不安定な政治、文化的孤立に直面することになります。それらは政治的、民族的、思想的、そして宗教的過激主義を醸成し、そこにはたびたび暴力が伴うのです。





ノリーナ・ハーツはその著書(負債の脅威:いかに負債が途上国だけでなく、我々全てを蝕んでいるか) において、現在の世界が直面している巨大な負債の危険性>span >―もちろん、それは利子なしに巨大とは成り得ませんが―について正確に描写する、素晴らしい一章を書いています。彼女は過激主義やテロの危険性、天然資源の枯渇などについて警鐘を鳴らし、その一面に言及してこう記しています:





貧困、不平等、腐敗といった負債による醜い副産物は、究極の暴力行為の正当化、さらには合法化を呼びかけるに至っています。世界貿易センタービルへのテロ事件のわずか数週間後、著名アフリカ人評論家のマイケル・フォーティンはこう書いています:「我々はこの嘆かわしい行為、少なくともその一部は、西側社会の人々により実践されてきた経済的抑圧によって押しつぶされてきた、自暴自棄で辱められてきた者たちの復讐であったことを理解すべきである。」フォーティンによる「押しつぶされ」「抑圧」「自暴自棄」「辱め」といった言葉使いは、意図的に喚起を促しています。そして、そのような言葉に強く共鳴する聴衆がいることも、至極明白なのです





現実的には、利子に関連する害悪についてさらに述べ連ねることが出来ますが、ここでは上記のもので十分でしょう。


イスラーム的解決策


利子問題に対するイスラーム的解決策は、二つの基本的な原理に基づいています:





(1)     もしも個人が、他者を助けるためにお金を貸与したい場合、その行為は「同胞愛の原則」に基づかねばならず、いかなる利子率であってもそれを課すことは絶対的に認められません。借りた額よりも多い金額を支払わなければならない利子の循環に他人を巻き込むことは、手助けとは言えません。この原則は、イスラーム的国際関係にも当てはめられることが出来ます。こうした重要な原則が現在においても適用されたのであれば、依存や負債の状態に陥れることなく、他国に真の「援助」を与えることが出来るのです。





(2)     もしも、ある人がお金を使ってお金を稼ぎたいのであれば、自身のお金をリスクに晒す覚悟がなければなりません。言い換えるなら、投資されたお金の結果がどうなろうと、(時間の経過と共に金額が増加するような)固定された利潤は保証されないということです。もしその人がお金をリスクに晒せば、利益による一定の分配を受ける資格はあるでしょう。しかしそのことは、もし損失が発生すれば、それを受け入れなければならないことも意味します。これは公正さに基づいたシステムであり、そこには多くの利益もあります。投資家の場合、投資結果について気を揉むようになり、債務者に何が起ころうと、自らの要求を通すことが出来ないのです。





このイスラーム的解決策は個人だけでなく、社会全体にも効果があります。銀行の本質とは、つまり金融の仲介業です。銀行は金銭に余裕(貯蓄)のある人からそれを受け取り、その金銭を投資資金を必要とする人に横流しします。このシステムが機能するためには、利子は必要ではありません。銀行と預金者(株主)は彼らの資産を投資するのであり、ただ単に貸与するだけではありません。お金はリスクに晒され、預金者へのリターンはそれぞれの投資利益に応じた額となります。経済成長における正常な状況下では、もし銀行の規模が大きくポートフォリオが多岐に渡るのであれば、銀行は事実上、全投資にプラスのリターンが保証されます。それゆえ、銀行でお金を投資する人々は、保証されることなく、または事前に定められることなく、プラスリターンを受け取ることになります。





今日、数々の「イスラーム的」金融機関が世界中に設置されて来ています。それらは利子を禁じるという原則の元に設立され、一部では急成長を見せています。1





結論


殆どの部分において、「近代文明」は神の導きに背を向けることを決め込み(西洋におけるキリスト教の経験がその主な原因です。)、独自の経済・政治システム、国際法などを作り出すことを試みてきました。しかしながらその過程において、彼ら自身が行なおうとして来たことは、彼らの能力の範疇外であったことを、彼らは認めなければなりません。社会科学は自然科学とは非常に性質の異なるものです。そこには人の立ち入りができるような実験室がないため、異なるシナリオにおける最善の結果を測定することが出来ません(そしてその場合でさえ、人が同じ状況で常に同じ行動を取ると仮定しなければならないのです)。





経済界において頭をよぎる最初の出来事は、社会主義・共産主義理論の崩壊でしょう。そして資本主義に対しても、そのあるべき姿と現実がいかに離れているかが直視されるべきでしょう。初期資本主義の論客は、それが「最良の諸要素を持ち合わせたもの」につながる理論となることを思い描いていました。しかし、それらの理論は決して実現し得ないことに基づいていたのです。彼らは完璧な競争、完璧な知識、自由貿易などを想定していました。それらの想定が一度でも破綻したなら、「最良の諸要素を持ち合わせたもの」であることはなくなるのです。その代わりに、富裕層は一層裕福となり、貧困層はより貧困となる、搾取の世界へと容易につながるのです。こうしたシステムを強力に引っ張る要素のひとつが利子制度なのです。





その啓示以来、寸分違わぬ保持をされてきたクルアーンという導きによって、神は人類を祝福されました。この書物は、人類が現世と来世における成功を収めるために必要な導きが記されています。それゆえこの書物が利子を最も強い調子で絶対的に禁じ、非難するのは、いわば当然のことでしょう。



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