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欧米的な伝統における仕事と労働は、品物を入手しその消費を求める人々が支払う対価であるとします。人の必要性は本来、労働をしない限りは満たされません。より少ない労働量がより多いものよりも適しているということは、論理的でも必然的な結果でもありません。一部の労働が他のものよりもより望ましいものであるとされたり、また一部が満足に必要性を満たせないものであるということも事実です。しかしながら、特に19世紀以降の経済学者たちにとっての一般的な仮定――そして功利主義において最も顕著に現れるもの――である、効率性と不快性は同時に上昇するということ、また賃労働からは本質的な満足が提供されることは期待されないという認識により、こうした点が無視されることは当然のことのようになりました。





イスラームにおける労働の概念(アマルと呼ばれるもの)は、欧米的な経済の伝統において理解されるそれよりも、はるかに広範かつ多様な性質と目的を有するものです。イスラームにおいて、労働倫理はクルアーンによって定義され、その中でアマルという単語は360もの節で言及されています。類似の概念であるフィアル(仕事/行いと訳されます)は、さらに109の節において言及されます。それらの節々すべてにおいて、人間の労働と行動の必要性が強調されています。こうした強調により、イスラームは実践の概念、あるいは概念の実践であり、行動の宗教、そして信仰者の枢軸であると見なされています。クルアーンは怠惰さ、もしくは非生産的で無益な物事の追求による時間の浪費を、信仰心の欠如の表れ、もしくは不信仰であると見なします。人は、神が生計の手段として日中を創られたことを宣言し、労働によって時間を有効に使うよう呼びかけられています。神の「恩寵」を求めて労働――それには生計を稼ぐあらゆる合法的な手段を含みます――に勤しむ人は、高く称賛されます。健常者は皆、暮らしのために仕事をすることが勧められているのです。身体的にも精神的にも健常でありながら、何もしないで暮らして家族の負担となることは認められていません。誰しもが行わらればならないような仕事は「善いもの」・「有益なもの」(アル=アマル・アッ=サーリフ)でなければなりませんが、現世と来世におけるその報いについては、いかなる仕事も重要な役割を果たします。自らの行いにより、人はその報奨もしくは懲罰を享受することになるのです(クルアーン99:6−8)。





それゆえ、仕事は権利であるだけでなく、責務や義務であるとも見なされます。イスラームは各個人が自らの仕事を選ぶ権利を与えますが、そうした自由と共に、社会の必要性を考慮すること、そしてシャリーア(イスラーム法)によって認められた仕事の種類を選ぶ義務が課されています。





イスラームはあらゆる階級制度を否定するため、シャリーアによって認められた仕事に恥ずべきものはなく、イスラームは天賦の才能・技術・テクノロジー・個人的な趣向などの多様性を支援します。公正さと契約の概念に基づき、イスラームは労働者が契約した任務を、能力の許す限り最善の形で果たすことを義務付けますが、各個人には異なる能力や才能が与えられていることから、それぞれの生産性は異なってきます。しかしながら公正さは、各個人への報酬として、仕事の生産性に見合ったものであることを要求します。





イスラームが怠惰さ、非生産的な仕事に反対していることは明らかですが、肉体的・精神的に働くことの出来ない人々が社会の生産するものを享受する権利を有することも明確にします。この決定は、神が人類に与えた資源の所有権における不変性に基づいています。人間の肉体的・精神的な能力は、社会においては一部が他の一部よりもより多くのものを持っているものの、その源泉は神であるため、より少ない資源における所有権も有効なものです。資源に対する神の元来の所有権についても、それが労働者の手によって商品・資産・富に形を変えても無効とはならないことと同様なのです。





さて、労働と所有はイスラームの所有権の中心を担うということは言及されました。イスラームは、神によって創造され、人に与えられたすべての資源を、責任を持って可能な限り活用することを推奨します。それらの資源を自らの、そして社会全体の利益として活用しないことは、無責任かつ浪費であり、神の供給に対して感謝をしていないも同然となります。富は、人が究極の目的を達成するための重要な手段と見なされます。イスラームは富を、喜びと楽しみの対象であり、共同体を益することも出来る「善きもの」であると見なします。反対に、不本意な貧困は望ましくないものであるとされます。このような富の概念は、富の取得、所有、そして消費において限定されます。





富を稼ぐことが許されるのは、富を稼ぐことによって人間の究極の目的を達成する手段とすることであり、富を稼ぐこと自体を目的としないことが前提とされます。それは「善良」で「生産的」かつ「有益」な仕事によって稼がれなければなりません。こうした種類の仕事は、合法的に富を稼ぐ方法を規定するシャリーアによって明細に述べられています。そこには富を合法的に稼ぐことだけではなく、禁じられた種類の経済的活動についても述べられます。シャリーアは、不法な富の取得につながりかねない非合法的な職業、取り引き、商業活動について明記します。さらには、合法的な職業の中における適切・不適切な慣行についても特定します。非合法的に取得・蓄積された富は、「腐敗」という規定をされ、貪欲さのような、負の性質に基づく、いわゆる人間性への逆行なのです。





イスラームは富を共同体の活力源として見なし、それは常に循環していなければならないものであるとします。それゆえ、その所有権には蓄える権利を含みません(クルアーン9:34−35)。合法的に稼がれた富は、経済の向上のために、共同体に投資されなければなりません。富の投資は、それに関連する金銭の取得のみでなく、それが社会にもたらす利益によっても測られます。それゆえ、社会の必要性も富の所有者によって考慮されなければならないのです。





富の消費方法もシャリーアによって規定の対象とされます。その規定における最たるものは、不変の所有権の原則による、その富における他者の権利の認知です。それらの規定の中には、額の定められた徴税、そして富の所有者によって決められる額の徴税があります。それらの徴税は、富がニサーブと呼ばれる一定額に達した際に徴収の対象となります。それらの義務が満たされると、残りの富は所有者に属することになりますが、それらはシャリーアに基づいて使用されなければなりません。それらの規定には浪費、贅沢、無駄遣い、そして一般的な富の乱用の禁止が含まれます。それらを他者に危害を加えたり、政治を腐敗させるのを目的に政治的権力を得たりすることに使用することは出来ません。





イスラームは合法的に得られた富をシャリーアによる保護の対象であると見なしますが、富の所有者を、神と共同体の代表として富を委託されている者であるとします。それゆえ、富を適切に消費することが出来ない者は、自らの富の権利を剥奪されることにもなりかねません。富の浪費、無駄遣い、または一般的な乱用をする者は、共同体により「サフィーフ」、すなわち理解力の乏しい者、あるいは知性の弱い者、そして共同体の利益に貢献しない、経済的・倫理的な損失者として見なされます。そうした人物の富は、共同体によって保護下に置かれ、権利に制限がかけられ、その中から必要最低限の出費しか出来なくなることがあります(クルアーン4:5)。その富は、シャリーアの全規定が適用された上で、共同体が取得し、それを所有し、出費することの出来る「善きもの」かつ「支援」と見なされるのです。





 



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