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第一コリント人11:3 “あなたがたに知っていただきたいのは、すべての男性の長はキリストであり、女性の長は男性であり、キリストの長は神だということです。”





第一コリント人15:28 “万物が神に従う時には、御子自身もまた、万物を従わせたその御方に従うであろう。それは、神がすべての者にあって、すべてとなられるためである。”





イエスが神に従う者であったということは、彼が神ではなかったことになります。





15.バイブルはイエスが成長の過程で英知と博識を得たと述べますが、神は全能であるため、そもそも学習の必要がありません。





そしてイエスの英知は増加しましたが、神は全能者です:





詩編147:5 “われらの主は偉大であり、力に富み、その英知は測りがたい。”





ルカ2:52:“そしてイエスはますます知恵が富み・・・”





神には学習の必要がありませんが、イエスは学習しました:





ヘブル人5:8 “彼は御子であるのに従順を学び・・・”





16.またバイブルはイエスの知識の限定性を述べますが、神の知識は無限です:





マルコ13:32 “その日、その時がいつであるかは、だれも知りません。天の御使いたちも子も知りません。ただ父だけが知っておられます。”





イエス(彼の神の慈悲と祝福あれ)に知らないことがあるとすれば、彼は全能者ではなく、従って彼はあらゆる知識を網羅する者である神ではないことになります。





17.またバイブルはイエスが誘惑を受けたと述べますが、神が誘惑を受けることはありません:





ヘブル人4:15“すべての点で、私たちと同じように、誘惑を受けたのです。”





ヤコブ1:13 “神は悪に誘惑されることのない御方です。”





神が誘惑を受けることはありませんが、イエスはそうではなかったため、彼は神ではないことになります。





18.またバイブルは、イエスの教えが神からのものであり、イエス自身のものではなかったと述べます:





ヨハネ7:16 “そこでイエスは彼らに答えて言われた。「私の教えは、私のものではなく、私を遣わした御方のものです。」”





もしも彼が神であったなら、その教義は彼のものであったため、彼がこのような主張をすることは出来なかったはずです。





19.またバイブルはイエスが死んだと述べますが、神に死はありません。





バイブルはイエスが死んだと説きます。神が死ぬことはありません。ローマ人1:23やその他の節では、神の不死性が説かれています。不死であるということは、“死の対象ではない”ことです。これはただ神のみに当てはまることなのです。





20.またバイブルでは、イエスが神によって生かされていたと述べられています:





ヨハネ6:57 “私は父のおかげで生きているのです。”





イエスは自らの存在を神に委ねていたのですから、神ではなかったことになります。





21.またバイブルは、イエスの力が与えられたものだったと述べています:





マタイ28:18 “一切の力は私に与えられたものです。”





神は全能であり、何者も神に力を与えることはありません。さもなけれ神は弱い存在だということになってしまいます。それゆえ、イエスは神ではないことになります。





22.またバイブルは、イエスが神による教えと戒めを受けたと述べています:





ヨハネ8:28 “私の父が教えられた通りに、私はこれらのことを話します。”





ヨハネ12:49 “私を遣わされた父が、私に命じられたのです。”





ヨハネ15:10 “私は父の戒めを守り・・・”





神は全知であるため、誰一人として神に教えることは出来ません。さもなければ神はその師に借りを作ることになってしまいます。イエスは神によって教えと戒めを受けたため、彼自身が神であることはありません。師と弟子、命令する者とされる者は同じではありません。





23.またバイブルは、神がイエスを“主”にしたと述べます:





使徒行伝2:36 “神がこのイエスを・・・主、そしてキリストにしたのです。”





バイブルにおいて“主”という表現は多くの意味で使われており、神とイエス以外にも“主”という呼称が使われています。例えば:





1)資産の保有者(マタイ20:8)





2)世帯主(マルコ13:35)





3)奴隷の所有者(マタイ10:24)





4)夫(第一ペテロ3:6)





5)子供は父親を主と呼びました(マタイ21:30)。





6)ローマ皇帝は主と呼ばれました(使徒行伝25:26)。





7)ローマ人の諸権威は主と呼ばれました(マタイ27:63)。





“主”は“神”とは異なる言葉です。バイブルにおいて“主”(ギリシャ語でクリオス)は頻繁に使われる男性形の敬称です。もしもイエスが神だったのであれば、彼が主に“された”という表現は不可解なものとなります。





24.またバイブルは、イエスが諸天使よりも低い存在であったと述べます:





ヘブル人2:9 “ただ、諸天使よりも、しばらくの間、低くされた方であるイエスのことは見ています。”





諸天使の創造主である神は、自らの創造よりも低い存在であることはありませんが、イエスはそうでした。したがって、イエスは神ではなかったことになります。





25.またバイブルは、イエスがその父を“私の神”と呼んだと述べます:





マタイ27:46 “我が神よ、我が神よ、なぜ私をお見捨てになったのですか?”





ヨハネ20:17 “私は、私の父でありあなたがたの父、私の神でありあなたがたの神のもとに上るのです。”





黙示録3:12 “・・・私の神の聖所・・・私の神の御名・・・私の神の都・・・私の神のもとを出て天から下って来る・・・”





イエスは自分自身を神と見なしてはいませんでした。彼は私たちの神と彼の神は同じ神であると説いていたのです。





26.またバイブルでは、神を見ることは出来ませんが、イエスは見ることが出来ると述べます:





ヨハネ1:18 “未だかつて神を見た者はいない。”



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