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バイブルの使徒行伝では、イエス(彼に神の慈悲と祝福あれ)が天に召された後の彼の弟子たちによる30年間以上に渡る活動の詳細が記されています。この期間中、彼らは一度たりともイエスを神として言及しなかったのです。例えばペテロは11人の弟子たちと共に立ち上がり、聴衆に向けこのように説いています:





使徒行伝2:22 “イスラエルの民よ。今わたしの語ることを聞きなさい。あなたがたがよく知っているとおり、ナザレのイエスは、神が彼をとおして、あなたがたの中で行われた数々の力あるわざと奇跡としるしとにより、神から遣わされた人間であることを、あなたがたに示されたかたであった。”





ペテロにとり、イエスは神のしもべだったのです(マタイ伝12:18における確証):





使徒行伝3:13 “アブラハム、イサク、ヤコブの神、すなわち、私たちの父祖の神は、そのしもべイエスに栄光をお与えになりました。”





使徒行伝3:26 “神は、そのしもべをお揚げになり・・・”





諸権威による対立に直面した際、ペテロは言いました:





使徒行伝-5:29-30 “人ではなく神に従うべきです!私たちの父祖の神はイエスをお揚げになったのです・・・”





弟子たちはイエスに命じられた通りに(ルカ11:2)、神へと祈り、イエスを神のしもべであると見なしていたのです。





使徒行伝4:24 “・・・人々はみな、心を一つにして、神に向かい、声を上げて言った。「至高なる主よ。あなたは天と地と海とその中のすべてのものを造られた御方です。」”





使徒行伝4:27 “・・・あなたが油を注がれた、あなたの聖なるしもべイエスに・・・”





使徒行伝4:30 “・・・あなたの聖なるしもべイエスの・・・”





これはクルアーンによって述べられるイエスと全く同じなのです:





クルアーン19:30 “・・・実に、私は神のしもべです。”





8.バイブルはイエスが選ばれた者、寵愛を受けた者、そして神のしもべであったと述べます。





マタイ12:18 “これぞ、わたしの選んだわたしのしもべ、わたしの心にかなう、わたしの愛する者。”





イエスは神のしもべであったため、彼が神であるということは有り得ません。





9.バイブルは、イエスが自分ひとりでは何も出来なかったことを述べています。





ヨハネ5:19 “子は、父のすることを見て行なう以外には、自分からは何事も行なうことが出来ません。父がすることは、子もそれを見て同様に行なうのです。”





ヨハネ5:30 “私は、自分からは何事も行うことが出来ません。”





イエスは彼自身が神と同等であるとは見なしておらず、それどころか自分自身で何かを出来ると言うことさえ主張しなかったのです。





10.またバイブルは神がイエスを通して奇蹟を起こしたのであり、イエス自身には能力の制限があると述べています:





マタイ9:8 “しかし群衆はそれを見ると恐怖し、このような権威を人にお与えになった神を讃えた。”





使徒行伝2:22 “神が彼をとおして、あなたがたの中で行われた数々の力あるわざと奇跡としるしとにより、神から遣わされた人間であることを、あなたがたに示されたのである。”





使徒行伝10:38 “・・・彼は、神がともにおられたので、巡り歩いて善行し、また悪魔に支配されているすべての者を癒されました。”





もしもキリストが神だったのであれば、バイブルは神に言及することなく、単にイエスが自身で奇蹟を行なったと述べるはずです。神が奇蹟を起こす力を授けていたという事実は、神がイエスよりも偉大であることを証明します。





また、イエスは奇蹟の行ないに関しても制限されていました。ある時イエスが盲人を癒そうとした際、一度目の試みではその人物は癒されず、イエスが二度目の試みをしたことが知られています(マルコ8:22‐26)。またある時には、不治の出血に悩まされていた女性が、彼の背後から近づいてその外套に触れると、彼女は即座に癒されましたが、イエスは触れたのが誰だったのかを知りませんでした:





マルコ5:30 “イエスも、すぐに、自分のうちから力が外に出て行ったことに気づいて、群衆の中を振り向いて、「だれがわたしの衣服にさわったのですか?」と言われた。”





マルコ6:5 “それで、そこでは何一つ奇蹟を行なうことができず、少数の病人に手を置いて癒すだけであった。”





そのような制限のある人物が神であるということは、明らかに不可能です。奇蹟の力は、イエスの内にあるものではなかったのです。





11.またバイブルはイエスが弱ったとき、天使たちが彼を助けたと述べます。しかしながら神は手助けを必要としません。





ルカ22:43 “御使いが天からイエスに現われて、(ゲッセマネの花園において)イエスを力づけた。”





マルコ4:11 “それで悪魔は彼から離れて行った。すると見よ、御使いたちが近づいて来て彼に仕えた。”





マルコ1:13 “イエスは四十日間荒野にいて、サタンの誘惑を受けられた。野獣とともにおられたが、御使いたちがイエスに仕えていた。”





人間は手助けを受ける必要がありますが、神は全能であるためにその必要がありません。イエスが手助けを必要としたのであれば、彼は神ではないことになります。





12.またバイブルは、イエスが自分ではなく神の御心を果たしたいと言ったと述べています。





ルカ22:42 “私の願いではなく、あなたの御心の通りにしてください。”





ヨハネ5:30 “私は自身の望むことを求めません。私を遣わした御方の御心を求めるからです。”





ヨハネ6:38 “私が天から下って来たのは、自分の望みを行なうためではなく、私を遣わした御方の御心を行なうためです。”





三位一体を構成するある一員は、他の者よりも低い地位にあるのでしょうか?それらには個別の意志(“ 私は自身の望むことを求めません”)があるにも関わらず、他者の命令(“私を遣わした御方の御心を求めるからです”)には無条件に従うのでしょうか?イエスは自らの意志を従属したものであると認めますが、三位一体の教義によれば、それらすべては同一の意志を持つと述べられているのです。三位一体の内のある一員は、それを構成する他の者のために自分の意志を差し控えなければならないのでしょうか?それらはすべて同じ意志を持たなければならないようになっているのでしょうか?





13.またバイブルは、イエスが神の証言は彼のものとは別であると見なしたと述べています。





イエスは彼と神はふたつであるとし、“ひとつ”であるとはしなかったのです。





ヨハネ8:17‐18 “私が自分の証人であり、また、私を遣わした父が、私について証言されます。”





ヨハネ14:1 “あなたがたは心を騒がしてはなりません。神を信じ、また私を信じなさい。”





もしもイエスが神だったのであれば、彼は神の証言と自分自身のそれを個別にはしなかったでしょう。



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