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全てのムスリムから敬愛され、純潔で敬虔な女性として知られるイエスの母マリアは、全ての女性たちの中から選ばれた女性です。イスラームでは、イエスが三位一体の一部であるというキリスト教の教義を否定し、イエスやその母マリアが崇拝の対象であるという考えを断固として否定します。クルアーンには、神以外に崇拝の対象はないとはっきりと述べられています。





それがアッラー,あなたがたの主である。かれの外に神はないのである。凡てのものの創造者である。だからかれに仕えなさい。”(クルアーン6:102)





しかしムスリムはイエスも含め全ての預言者を信じ愛するべきであり、イエスはイスラームの教義の中で特別な位置にあります。彼の母イエスは誇り高い女性です。若いときから、エルサレムの祈りの家に行き、神を崇拝し仕えるために、その人生を捧げたのです。





マリア、イエスの誕生の知らせを聞く。





マリアが一人きりで籠っていたときに、男性が彼女の前に現れました。神はこう言いました:





 “かの女はかれらから(身をさえぎる)幕を垂れた。その時われはわが聖霊(ガブリエル)を遣わした。かれは1人の立派な人間の姿でかの女の前に現われた。(クルアーン19:17





マリアは恐れ、逃げようとしました。彼女は神にこう言いました:





かの女は言った。「あなた(ジブリール)に対して慈悲深き御方の御加護を祈ります。もしあなたが,主を畏れておられるならば(わたしに近寄らないで下さい)。」かれは言った。「わたしは,あなたの主から遣わされた使徒に過ぎない。清純な息子をあなたに授ける(知らせの)ために。」”(クルアーン19:1819)





マリアはこの言葉に驚き、困惑しました。彼女は未婚でしたし、純潔な処女だったからです。彼女は怪訝そうに、こう尋ねました:





かの女は言った。「主よ,誰もわたしに触れたことはありません。どうしてわたしに子が出来ましょうか。」かれ(天使)は言った。「このように,アッラーは御望みのものを御創りになられる。かれが一事を決められ,『有れ。』と仰せになれば即ち有るのである。」(クルアーン3:47





神は土くれから、母や父なしにアダムを創りました。神はアダムの肋骨からイブを創り、そしてイエスは父親なしに母親のみ、つまり敬虔な処女マリアを通して創りました。神は、ただ「あれ」というだけで、そのものを存在させ、ガブリエルを通してイエスの魂をマリアに吹き込んだのです。





またわれは自分の貞節を守ったイムラーンの娘マルヤム(の体内)に,わが霊を吹き込んだ。1かの女は,主の御言葉とその啓典を実証する,(クルアーン66:12





クルアーンと聖書の中には、マリアに関する物語において、沢山の共通点があります。しかし、マリアが婚約もしくは結婚していたという見方は、イスラームにおいて否定されています。時が経ち、マリアは周りが何と言うかと考え、恐ろしくなりました。マリアは、一体どうやって周りの人々が、彼女が処女であるということを信じてくれるだろうと思いました。多くの学者は、マリアの妊娠期間は通常のものだったと考えています。2  そしてついに出産のときが来たとき、マリアはエルサレムを出る決心をし、ベツレヘムへと向かいました。マリアは神の言葉を覚えてはいたでしょうし、彼女の信仰は強く揺るぎないものでしたが、彼女は不安でした。ガブリエルは彼女にこう伝えました。





また天使たちがこう言った時を思え。「マルヤムよ,本当にアッラーは直接ご自身の御言葉で,あなたに吉報を伝えられる。マルヤムの子,その名はメサイアイエス,かれは現世でも来世でも高い栄誉を得,また(アッラーの)側近の一人であろう。(クルアーン3:45





イエスの誕生





陣痛のため、彼女はナツメヤシの木の幹につかまり、苦しみの中こう叫びました:





「ああ,こんなことになる前に,わたしは亡きものになり,忘却の中に消えたかった。」(クルアーン19:23





マリアはそのナツメヤシの木のもとで、イエスを産みました。彼女は出産のあと、疲れ果て、苦しみと恐れに満ちあふれていましたが、その中で彼女に対する声を聞きました。





“その時(声があって)かの女を下の方から呼んだ。「悲しんではならない。主はあなたの足もとに小川を創られた。またナツメヤシの幹を,あなたの方に揺り動かせ。新鮮な熟したナツメヤシの実が落ちてこよう。食べ且つ飲んで,あなたの目を冷しなさい。(クルアーン19:24)





神はマリアに、彼女が座っていた場所から川を流し、彼女に水を与えました。神はまた、彼女に食べ物も与えました。彼女はただナツメヤシの木の幹を揺り動かさなければならないだけでした。マリアは恐れおびえており、疲れていました。出産の直後に、どうやって大きなナツメヤシの幹を揺り動かすことができたのでしょう?しかし神はマリアに糧を与え続けたのです。





その次に起きたことこそまさに奇跡であり、人々が教訓を得られるものでした。マリアは、ナツメヤシの木を揺り動かす必要はなかったのです。それは不可能なことでした。彼女はただそうしようと努めなければならないだけだったのです。彼女が神の命令に従おうとすると、新鮮な熟れたナツメヤシが落ちてきました、神はマリアにこう仰いました: “食べ且つ飲んで,あなたの目を冷しなさい。(クルアーン19:26





マリアは彼女の赤ん坊を連れて、家族のもとへ戻らなければいけませんでした。もちろん彼女は怯えていましたが、神はそのことをよく知っていました。そのため神は、彼女に口をきかないよう指示しました。彼女が突然赤ん坊の母親になったということを、マリアが自ら伝えることは不可能だったのでしょう。それに彼女は未婚だったため、人々は彼女のことを信じなかったはずです。神はこう仰いました:





そしてもし誰かを見たならば,『わたしは慈悲深き主に,斎戒の約束をしました。それで今日は,誰とも御話いたしません。』と言ってやるがいい。」(クルアーン19:26





マリアは赤ん坊とともに人々のもとへ戻りました。彼らはすぐに彼女を責め立て、「一体何をしたのだ?あなたは良い家柄の出だし、あなたの両親は敬虔であったのに!」と叫びました。





神の指示通り、マリアは何もしゃべりませんでした。彼女はただ腕に抱いている赤ん坊を指差しました。するとマリアの子イエスが、話したのです。新生児であるイエス、神の預言者が最初の奇跡を起こしたのでした。神の許しのもと、彼はこう言いました。





その時)かれ(息子)は言った。「わたしは,本当にアッラーのしもベです。かれは啓典をわたしに与え,またわたしを預言者になされました。またかれは,わたしが何処にいようとも祝福を与えます。また生命のある限り礼拝を捧げ,喜捨をするよう,わたしに御命じになりました。またわたしの母に孝養を尽くさせ,高慢な恵まれない者になされませんでした。またわたしの出生の日,死去の日,復活の日に,わたしの上に平安がありますように。」そのこと(イエスがマリアの子であること)に就いて,かれら(ユダヤ教徒,キリスト教徒)は疑っているが本当に真実そのものである。(クルアーン19:30〜34)





マリアはクルアーンの中でスィッディーカ(真実を述べる者)と呼ばれていますが、アラビア語のスィッディーカはただ真実を語るというだけの意味ではありません。この言葉はその敬虔さにおいて高いレベルに到達した者を指します。それは自分自身やまわりの人々に対してだけでなく、神に対して正直な人のことなのです。マリアは神との約束を守り、神に全身全霊で仕えました。彼女は、敬虔で、純潔で、献身的でした。彼女は、すべての女性の中からイエスの母になり、イムラーンの娘になるよう選ばれた女性だったのです。





クルアーンはイエスの物語の中において、イエスの母マリアが神によって遣わされた天使から、想像もつかないような吉報をもたらされた場面を説明します。それは、彼がメシアとして誠実な者、神の預言者となり、イスラエルの民を正道に導くことになるというものでした。





 “また天使たちがこう言った時を思え。「マルヤム(マリア)よ、本当にアッラーは直接ご自身の御言葉で、あなたに吉報を伝えられる。マルヤムの子、その名はマスィーフ・イーサー(イエス・キリスト)、かれは現世でも来世でも高い栄誉を得、また(アッラーの)側近の一人であろう。かれは揺り籠の中でも、また成人してからも人びとに語り、正しい者の一人である。」”(クルアーン3:45−46)





当然ながらマリアにとって、その知らせは奇異かつ不可能なものと思えました。





 “かの女は言った。「主よ、誰もわたしに触れたことはありません。どうしてわたしに子が出来ましょうか。」かれ(天使)は言った。「このように、アッラーは御望みのものを御創りになられる。かれが一事を決められ、『有れ。』と仰せになれば即ち有るのである。」主は啓典と英知と律法と福音とをかれに教えられ・・・”(クルアーン3:47−48)





神はご自身による被造物の独自性を、最初の人間であり預言者でもあるアダムと比較されていることから、イエスの性質そのものも特別なものなのです。





 “イーサー(イエス)はアッラーの御許では、丁度アーダムと同じである。かれが泥でかれ(アーダム)を創られ、それに「有れ。」と仰せになるとかれは(人間として)存在した。”(クルアーン3:59)





イエスの奇跡





イエスは最も偉大な預言者のひとりとなり、彼の前任者でもある預言者モーゼの教えを確証させるため、イスラエルの民に遣わされました。彼の誕生も奇跡であり、他のすべての預言者たち同様、数々の奇跡を起こすことも許されました。彼は人々にこう説きました。





 “そしてかれを、イスラエルの子孫への使徒とされた。(イーサーは言った。)「わたしは、あなたがたの主から、印を齎したのである。わたしはあなたがたのために、泥で鳥の形を造り、それに息を吹き込めば、アッラーの御許しによりそれは鳥になる。またアッラーの御許しによって、生れ付きの盲人や、癩患者を治し、また死者を生き返らせる。またわたしは、あなたがたが何を食べ、何を家に蓄えているかを告げよう。もしあなたがたが(真の)信者なら、その中にあなたがたへの印がある。わたしはまた、わたしより以前に下された律法を実証し、またあなたがたに禁じられていたことの一部を解禁するために、あなたがたの主からの印を齎したのである。だからアッラーを畏れ、わたしに従いなさい。本当にわたしの主はアッラーであり、またあなたがたの主であられる。だからかれに仕えなさい。これこそは、正しい道である。」”(クルアーン3:49−51)





イエスの弟子たち





クルアーンは引き続きイエスの人生と、彼の弟子たちに関する出来事を一部を述べます。





 “イーサーは、かれらが信じないのを察知して、言った。「アッラー(の道)のために、わたしを助ける者は誰か。」弟子たちは言った。「わたしたちは、アッラー(の道)の援助者です。わたしたちはアッラーを信じます。わたしたちがムスリムであることの証人となって下さい。主よ、わたしたちは、あなたが下されたものを信じ、あなたの使徒に従います。それでわたしたちを証人たちと一緒に、書きとめて下さい。」”(クルアーン3:52−53)





クルアーンのスーラ(章)が名付けられた別の場面においては、イエスの弟子たちが彼に奇跡を起こすよう求めます。





 “かれら弟子たちが、こう言った時を思い起せ。「マルマムの子イーサーよ、あなたの主は、わたしたちのために、(食べ物を)並べた食卓を、天から御下しになるであろうか。」かれ(イーサー)は言った。「あなたがたが信者なら、アッラーを畏れなさい。」かれらは言った。「わたしたちはその(食卓)で食べて、心を安らげたい。またあなたのわたしたちに語られたことが真実であることを知り、わたしたちが、その証人になることを乞い願います。」マルヤムの子イーサーは(祈って)言った。「アッラー、わたしたちの主よ、わたしたちのために、(食物を並べた)食卓を天から御下しになり、それでわたしたちへの最初の、また最後の機縁となされ、あなたからの印として下さい。わたしたちに食を与えて下さい。本当にあなたは最も優れた養い主です。」”(クルアーン5:112−114)





神は彼らが求めた食卓を天から下しましたが、それは警告の伴ったものでした。





 “アッラーは仰せられた。「本当にわれは、それをあなたがたに下すであろう。それで今後もしあなたがたの中で不信心者となる者があれば、われは世の誰にもまだ加えなかった懲罰で、かれを罰するであろう。」”(クルアーン5:115)





物語はそこで終わるのか





クルアーンの中において、イエスの物語は終わりを見せることはありません。なぜならイエスは殺されたのではなく、神によってその御元へと召されたからです。





 “アッラーがこう仰せられた時を思い起せ。「イーサーよ、われはあなたを召し、われのもとにあげて、不信心者(の虚偽)から清めるであろう。またわれは、あなたに追従する者を、審判の日まで、不信心の者たちの上位におくであろう。それからあなたがたは(皆)われの許に帰り、あなたがたが争っていたことに就いて、われは裁決を下すであろう。その時われは、現世においても来世でも不信心な者たちに厳しい懲罰を与えよう。(誰一人)かれらを助ける者もない。」主は信仰して善行に勤む者を(十分に)報奨される。だがアッラーは、不義を行う者を御好みにならない。”(クルアーン3:55−57)





またクルアーンは、イエスが殺されたのでも十字架にはりつけにされたのでもなかったことを指摘します。神はイスラエルの民に言及し、彼らによるマリアへの糾弾、そしてイエスを殺したという虚偽の主張について咎めます。





 “かれらは不信心のため、またマルヤムに対する激しい中傷の言葉のために、「わたしたちはアッラーの使徒、マルヤムの子マスィーフ(メシア)、イーサーを殺したぞ」という言葉のために(心を封じられた)。だがかれらがかれ(イーサー)を殺したのでもなく、またかれを十字架にかけたのでもない。只かれらにそう見えたまでである。本当にこのことに就いて議論する者は、それに疑問を抱いている。かれらはそれに就いて(確かな)知識はなく、只臆測するだけである。確実にかれを殺したというわけではなく。いや、アッラーはかれを、御側に召されたのである。アッラーは偉力ならびなく英明であられる。”(クルアーン4:156−158)





クルアーンはイエスが神に御元に引き上げられたこと、そして預言者ムハンマド(神の慈悲と祝福あれ)は、審判の日の前にイエスが再び地上に遣わされることを確証します。アブー・フライラによって伝承された預言者ムハンマドの言行録において、預言者はこのように述べています。





 “私の魂がその御手の中にある御方にかけて。マリアの息子はあなたがたの元に公正な裁き人として降臨し、十字架を破壊し、豚を殺し、ジズヤ(人頭税)を廃止し、富はあまりにも潤沢となるため、誰ひとりとしてそれを受け取らなくなり、一回の跪拝は世界とその中にあるすべてのものよりも素晴らしいものとなるであろう。”(サヒーフ・ブハーリー)





 



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