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上記のクルアーンの節は、クルアーンで言及されている最初の命令です。神はそこにおいて、かれと共に、あるいはかれを差し置いて何かを崇拝することの非論理性を証明しています。神は全人類に対し、全ての崇拝行為はかれのみに捧げられなければならない、と告知しており、かれこそが人間の主であり、供給者であり、創造主である、と語りかけているのです。人間はどこからか突如出現したわけではなく、神こそが彼らを無からお創りになったのです。そして創造の後、神は彼らを放ったらかしにはしておきませんでした。神は彼らが母親の胎内にいる時から、彼らの全生涯を通して、様々な種類の糧の源泉から供給することにより、彼らを保護しているのです。神はこの世のものを人々の益と慰安とすべく、創りました。ゆえに私たちと私たち以前の人々を創造した神こそが、崇拝される権利を有するのです。神以外の何ものも、既述した物事を供給してくれはしません。





人間や天使、ジン(精霊)など神以外の全ては、神によって創造されました。ゆえに、いかなる被造物も神として拝されたり、崇拝されたりしてはいけないのです。いかなる被造物も、この宇宙で何かを所有したり、制御したりすることはなく、神のお許しなくしては何かを害することも益することも出来ません。神は私たちに、強調してこう聞きます:あなた方は心の奥底では、神にいかなる対等者も対抗者もいないことを知っているというのに、一体どうしてわれを差し置いてわれ以外の何かを崇拝するのですか?このように、誰ならぬ神のみが命令する権利を有し、かれのみが私たちの厳密な服従に値するのです。神こそは全ての崇拝行為において唯一化され、そこにおいていかなる共同者も拒否する権利があるのです。





しかし私たちはよく、崇拝行為が味気のない、空虚な儀式になっているのを見出します。神は冒頭のクルアーンの一節において、崇拝の目的とは「タクワー」を達成することである、と私たちに知らせています。多くのクルアーン訳では、この「タクワー」は畏怖の念、敬虔さ、または正しさなどと翻訳されています。しかし「神を意識すること」、あるいは「神を自覚すること」などとした方が、恐らくもっと正確な翻訳になるでしょう。「タクワー」とは常に神の存在を自覚し、正しい物事を行なうことによって、神のお怒りと自らの間に防御壁を設えることです。そもそも神は、私たちの崇拝行為によって得をしたり、あるいはそれらを必要としたりしているわけではありません。むしろ崇拝行為は、その他全ての神のご命令同様、私たち自身の利益なのです。人は神を崇拝する時、神のことを思い出し、次いでこの世の目的を想起し、そして罪深い行いや悪事を行なうことを思い止まります。これらの想起により、「タクワー」すなわち「神を意識すること」につながります。人はこの状態に到達した時、その行為が彼の主をご満悦させるものか、あるいはお怒りを買うものか、という真の実情を念頭に入れることなく、いかなる言動も行なわないようになるのです。





「人々よ、あなた方の主の御許から、使徒(ムハンマド)が真理と共に到来した。ゆえに信じるのだ、それがあなた方にとって最善である。しかしもしあなた方が信じなくても、神にこそ天地の全てが属するのだ。神こそは全てをご存知になられ、またこの上なく英知に溢れたお方であられる。」(クルアーン4:170)





神は全人類に対し、ムハンマドをその主からの真実を携えて到来した「使徒」として受け入れるよう、呼びかけています。イスラームの教義において「使徒」とは、預言者以上の存在です。預言者は本質的に、未来を予告する存在に過ぎません。しかし「使徒」は、彼が授かった啓示に基づいて、他の人々に神のメッセージを伝えるために神によって任命された、道徳的教師なのです。神からのメッセージを授かることは、「啓示」と呼ばれます。イスラームの伝統によれば、全ての使徒は預言者と見なされますが、全ての預言者が使徒であるわけではありません。アブラハム、モーゼ、イエス、及びムハンマド‐神が彼らを称揚されますよう‐は皆、使徒として見なされています。 





人はなぜ、ムハンマドを神の使徒として受け入れるべきなのでしょうか? ムハンマドは、モーゼ及びイエスの、聖書的使徒性の集大成でした。ムハンマドには非の打ち所がない特性があり、完璧なる生涯を送りました。彼ほどにその生涯を詳細に渡って記録された者はいません。彼の宗教的教えと道徳は現代の様々な苦境に対する、最善の解決法です。彼が神の御許から世界に携えて到来した啓典であるクルアーンは、無類の文学的奇跡であり、及び逐語的に保存されている唯一の世界的啓典です。つまり、彼について言われること、そして彼から発することの全ては単純に真実なのです。この人物のことを知らない人は、彼についてもっと学ぶよう呼びかけられています。というのも神ご自身、ムハンマドを信じることは、人間自身の利益にとってよりよいことであるということを宣言されているからです。そしてもしそうするのであれば、人はこの人生で幸福になり、かつ修養された存在となるでしょう。そして死後には、天国の楽園で永遠の生を営むことになります。しかしもし彼の事を拒んでも(そうすれば、彼を遣わされた存在をも拒むことになります)、そのことは神とその使徒に対し害を与えることにはなりません。むしろそのようなことは、彼を拒否した本人を害することになるのです。宇宙に存在する全ては神に属するのであり、神こそは全てをご存知になられ、またそのご命令と創造においてこの上なく英明なお方なのです。



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