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歴史上のあらゆる一夫多妻社会の中で、妻の数を制限したものはひとつもありませんでした。すべての関係は無制限だったのです。イスラームは、男性が持つことの出来る妻の数を制限すると同時に、関係するすべての女性に対して責任を持たせます。





 “あなたがたがもし孤児に対し、公正にしてやれそうにもないならば、あなたがたがよいと思う2人、3人または4人の女を娶れ。だが公平にしてやれそうにもないならば、只1人だけ(娶るか)、またはあなたがたの右手が所有する者(奴隷の女)で我慢しておきなさい。このことは不公正を避けるため、もっとも公正である。”(クルアーン4:3)





クルアーンのこの節は、男性が複数の女性と結婚することを許しますが、それは彼女らに公正にすることが出来る場合のみです。





 “あなたがたは妻たちに対して公平にしようとしても、到底出来ないであろう。あなたがたは(そう)望んでも。偏愛に傾き、妻の一人をあいまいに放って置いてはならない。あなたがたが融和し、主を畏れるのならば。誠にアッラーは、度々赦される御方、慈悲深い御方であられる。”(クルアーン4:129)





預言者(神の慈悲と祝福あれ)は複数の婚姻関係においてどのように振舞い、そこにおける困難に対処すべきかという啓示を受けていました。一人の男性が複数の女性、複数の家族、そして複数の所帯を取り持つことは決して容易なことではありません。合理的な知性を持つ男性であるなら、多大なる熟考なしには、そうした状況に自らを置くことはしないでしょう。





婚姻関係において肝心なことは品行方正、そして幸福であることで、男女の必要性が満たされた、公正かつ結束した社会の基盤となることです。成人男女の合意のもとに自由な性交を許す現在の欧米社会は、無責任な性的関係の横行による「父親不在」の子供たち、そして未婚の10代の母親たちを増加させました。そして彼らはみな、国家における福祉システムの負担となりつつあります。一部では、そのために膨れ上がる予算のあまりの額に、米国のような経済的に力強い国家ですらその要求に答えることが出来ない程なのです。膨張し続ける巨額の赤字は、米国において政治全体に影響を与える大問題となっています。





要約すると、私たちは人為的に作り出された一夫一婦制度が、国家における家族の仕組み、社会、経済、そして政治を破壊しつつあるのを目の当たりにしています。





預言者ムハンマドは、ムスリムたちが結婚をするか、結婚が出来るようになるまで忍耐をもって辛抱することを教えています。アブドッラー・ブン・マスウードは、神の使徒が次のように述べたとを報告しています。





 “若者よ、妻を扶養することの出来る者は結婚すべきです。なぜならそれはあなたが他人の女性に目をやること、そして不道徳からあなたを守るからです。しかしそれが出来ないのなら断食をすべきです。なぜならそれは性欲を抑える一つの方法でもあるからです。”(サヒーフ・ブハーリー、サヒーフ・ムスリム)





イスラームは人々が結婚し、良き家族構成を育むことを望みます。また、イスラームは一夫多妻が多くの諸問題の解決となる、社会と個人の必要性を認識します。それゆえ、イスラームは一夫多妻を許しつつ、妻の数を4人までに制限したのです。





現在のムスリム社会では、それが多くの国で法的に許されているにも関わらず、一夫多妻は広く実践されているものではありません。おそらく、制限され、かつ責任の伴う一夫多妻制は、無制限かつ責任を取るべき相手から逃れることの出来る事実上の一夫多妻と異なり、難しいものなのかも知れません。





(この記事における一夫多妻は、男性が2人以上の妻を持つことを意味します。イスラームでは一妻多夫を禁じています。)





原罪という概念は、ユダヤ教・キリスト教において全く異質なものであり、西方教会においてのみ受容されたものです。また、キリスト教とイスラームにおける罪の概念は、特定のニュアンスにおいて事実上、正反対のものです。たとえば、イスラームには「心の中で罪を犯す」という概念が存在せず、ムスリムにとって悪い思いつきは、それを実行に移すことを拒否するのであれば善行となります。私たちの心を常によぎる悪い思いつきの克服は、罰ではなく報奨に値すると見なされるのです。イスラーム的に言えば、それを実行に移したときのみ、悪い思いつきは罪となるのです。





善行をしようと意図することは、どちらかというと、人間の本来の性質には反することです。私たちは創造されたときから、つまり人類は歴史的に、社会的・宗教的な規制がなければ、肉欲と放蕩の晩餐をむさぼり続けてきました。歴史の回廊を敷き詰めてきた、自堕落さと言う名の暴挙は、個人と地域だけでなく、自滅するまで富を独占し続けてきた主要な支配層をも包括してきました。その中でもソドムとゴモラは大半の分野で名前が挙がるでしょうが、ギリシャ、ローマ、ペルシャ帝国などの古代の列強や、ジンギスカン、アレクサンドロス大王などは、その不名誉において言及されるべきでしょう。また、公共のデカダンス(虚無的・退廃的な傾向や生活態度のこと)の例は数え切れない程だった一方、個々の腐敗に関しては更に一般的なものでした。





善良な思考は、人間の性分とは限らないと書きました。それゆえイスラーム的理解としては、たとえそれが実行に移されなかったとしても、善行を意図すること自体は報奨に価するのです。もしもそうした意図を実行に移したなら、アッラーは報奨を更に上乗せするのです。





原罪という概念は、イスラームにおいては単に存在しませんし、過去に存在したこともありません。キリスト教徒の読者の方にとっての疑問は、原罪という概念が今日存在しているかどうかではなく、原始キリスト教においてそれが存在していたかどうかなのです。つまり、イエスはそれを説いたのでしょうか?





どうやらそうではなかったようです。その概念を生み出した人物が誰であれ、次のイエスの言葉からも分かるよう、考案者は彼ではありませんでした。





 “子供たちを来させなさい。わたしのところに来るのを妨げてはならない。天の国はこのような者たちのものである。”(マタイ19:14)





洗礼を受けていない者たちは、地獄行きであるとされるにも関わらず、いかに「天の国」が「このような者たちのもの」となり得るのか不思議に思うかも知れません。子供たちは原罪を持って生まれたのか、あるいは天国が用意されているのでしょうか? 教会は両方の意見を持つことは出来ません。エゼキエル書の18:20では、このような記録があります。





 “子は父の罪を負わず、父もまた子の罪を負うことはない。正しい人の正しさはその人だけのものであり、悪人の悪もその人だけのものである。”





申命記24:16では、同じ点が繰り返されています。これは旧約聖書ではないかという反対意見が上がるかも知れませんが、それはアダムよりも古い訳ではありません。もし、原罪がアダムとイヴにまで遡るのであれば、それがどの時代のどの啓典においても否認されていることを見いだすことは出来ないでしょう。





イスラームでは、各人は精神的に清浄な状態で生まれてくるのだと説かれ、育つ環境や現世の誘惑が人を堕落させるのだとします。いずれにせよ、罪は遺伝・相続されるものではなく、アダムとイヴでさえその罪による懲罰は受けないのです。神は二人を赦されたからです。そして、なぜ人類はすでに存在しないものを受け継ぐことが出来るでしょう? イスラーム的に言えば、私たちすべては自らの行為に応じて審判されるのです。それは以下の節に基づきます。





 “…人間は、その努力したもの以外、何も得ることは出来ない。”(クルアーン53:39)





…and





 “誰でも導かれる者は、只自分の魂を益するために導かれ、また誰でも迷う者は、只自分を損うために迷う。重荷を負う者は、他人の重荷を負うことは出来ない…”(クルアーン17:15)





人はそれぞれ、自らの行いに責任を持ちますが、洗礼を受けていないからといって生まれながらにして罪を着せられ、地獄に堕ちる子供はいないのです。



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