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人に正直者の定義を聞けば、その答えはおそらく正直な発言に関することだけに限定されるでしょう。しかしイスラームは、正直さが発言だけには留まらないと説きます。つまりイスラームにおける正直さとは、外面と内面、意図と行為、信仰と発言、そして実践と教義の一致を意味するのです。ゆえに正直さは正しいムスリムの性格の基礎であり、その徳行の出発点なのです。





偉大なる賢者かつイスラーム学者であるイブン・アル=カイイムは、次のように述べています:“正直さは最も重要な基盤であり、そこから神の道を歩む者の様々な基盤が芽生えるのである。そしてその正しい道を歩まなければ、その人物の宿命は破滅なのである。そしてそこにおいて偽善者と信仰者、また楽園と火獄の住民が判別される。それは地上における神の剣である:それは触れるもの全てを切り裂き、全ての虚偽を捕らえ、征服する:誰であれそれを有する者は敗北を知らない;そして誰であれそれを語る者は、その言葉によって敵対者に対する勝利をもたらす。それは所業の本質そのものであり、精神的状態の源泉であり、人が危険な状況の中であれ勇敢に立ち向かうことを可能にさせ、また最も荘厳なる御方へと続く扉を開けるのである。それはイスラームがその上に成り立つ基礎であり、確信を打ち立てる中心的支柱であり、預言者の地位の次に来る地位なのである。”1





正直さを実践することにより、人は自身を向上させ、それによって正しい人生を歩みます。そしてそれによって称賛に値する高みに到達し、人々の、そして神の御前において高い位階を獲得するのです。預言者ムハンマド(彼に神の慈悲と祝福あれ)はこう言っています:





“私はあなたが正直であることを命じる。実に正直さは誠実さへつながり、実に誠実さは楽園へとつながるのである。人は正直であり続け、正直者であると神に記録されるまで正しいことに努力し続けるのである。そして虚偽に用心しなさい。実に虚偽は罪へとつながり、罪は業火につながるのである。人は嘘をつき続け、嘘つきであると神に記録されるまで嘘をつき続けるのである。”(サヒーフ・ムスリム)





従って正直さとは、人の性質と魂の中に埋め込まれるまで養い続けるべきものなのであり、そうすることでその人物の性格に反映されるべきものなのです。預言者ムハンマドの従兄弟であり婿でもあるアリー・ブン・アビー・ターリブは、現世において人々に対し正直であることによって得られる報いとしての良い効果について言及しています:





“誰であれ次の三つのことを人々に対して行なう者には、人々が彼にもその三つのことをもたららしてくれるであろう:つまり人々に語るとき正直であり、また人々から何かを託された時には裏切らず、そして人々に約束した時にはそれを果たすことである。もし彼がこれらを行なうのであれば、人々の心は彼を愛し、彼らの舌は彼を称え、彼らは彼の援助にやって来るであろう。”2





一方従順な者―正直さを実践する者―は来世においては啓示で言及されているように、神の恩寵と慈悲により最も幸福な魂の者たちと共に、楽園の住処を与えられるのです。





“神と使徒に従う者は、神が恩恵を施された預言者たち、誠実な者たち、殉教者たちと正義の人々の仲間となる。これらは何と立派な仲間であることよ。”(クルアーン 4:69)





事実、正直さは全ての預言者たちが本質的に有していた要素でした。クルアーンは私たちにこう述べます:





“またこの啓典の中で、アブラハム(の物語)を述べよ。本当に彼は正直者であり預言者であった。”(クルアーン 19:41)





“またイシュマエルのことを、この啓典の中で述べよ。本当に彼は約束したことに忠実で、使徒であり預言者であった。”(クルアーン 19:54)





“またエノックのことを、この啓典の中で述べよ。彼は正直な人物であり預言者であった。”(クルアーン 19:56)





また私たちは、預言者ヨセフが投獄されていた際、彼がある男からこう呼びかけられていたことをクルアーンの中に見出すことが出来ます:





“「ユースフよ、誠実な人よ…”(クルアーン 12:46)





…またイエスの母マリアは、神によって正直な者であると宣言されています:





“マリアの子メシア(イエス)は、一人の使徒に過ぎない。彼の以前にも使徒たちがあって、逝ったのである。彼の母は正直者、信仰者であった…”(クルアーン 5:75)





…そしてクルアーンの中でたびたび言及されている使徒の教友たち、“信仰者たち”は、正直者という高い地位に達しているのです:





“本当に信仰者とは一途に神とその使徒を信じる者たちで、疑いを持つことなく、神の道のために、財産と生命とを捧げて奮闘努力する者である。これらの者こそ真の信仰者である。」(クルアーン49:15)





従って正しい道を歩む者とは、神の創造において最も誠実な者としての道を歩むことなのです。徳行の中でも最も高潔であるこの正直さを私たちの生活の中で実践するにあたり、神による人類最後の使徒である預言者ムハンマドは正直さの徳として、いえ、正直であることの訓令として、何が必要とされるかを細部に渡って説明しているのです。神の使徒による膨大な言葉の一つとして、彼の次のような請願があります:





“私に次の六つのことを保障すれば、私はあなたに楽園を保障する:会話において真実を述べ、約束を果たし、信頼された時は忠実であり、(不貞から)陰部を守り、(凝視せずに)目を伏せ、両手を(他者への危害から)抑えなさい。”3





そして神は、使徒によるこれらの言葉の真実性を、かれ自身の御言葉によって確証されているのです:





“本当にムスリムの男と女、信仰する男と女、献身的な男と女、正直な男と女、堅忍な男と女、謙虚な男と女、施しをする男と女、斎戒(断食)する男と女、貞節な男と女、神を多く唱念する男と女、これらの者のために、神は罪を赦し、偉大な報奨を準備なされる。”(クルアーン 33:35)





「正直さ」が正しい人物の性格の最たるものであり、その人物の徳の出発点であるのと同様、その対極に当たる虚偽はその人物の腐敗の元であり、邪悪さの出発点です。また人の正直さ―つまり真の信仰の反映―が内面から表れるのと同じように、人の不誠実、嘘、そして欺瞞もまたその者の内面の反映なのです。これが、神が正直さを偽善の対極として言及されている理由です:





“(これは結局)神が、正直な人々に対しその正直さに報われ、またかれが御望みならば、偽信者(偽善者)を罰し、あるいは彼らを赦されるということである。(クルアーン 33:24





…そして、なぜ誠実さが正直者のしるしであるかが述べられています:





“それにより神は正直者を、その正直さによっておそらく報奨されるだろう…”(クルアーン 33:24





最も誠実で正直な人々、すなわち神の諸預言者1と彼らの追従者たちが不誠実で欺瞞に満ちた偽善者たちによって裏切られ、非難され、敵対され、迫害され、拒否され続けてきたことは想像に難くありません。





“神の印を信じない者は、ただ嘘を捏造する者で、彼らこそ虚言の徒である。”(クルアーン 16:105





上の節は、信仰における嘘を意味します。一方行為における嘘に関しては、神はクルアーンでこう述べています:





“それは、あなた方の内の誰の行いが優れているのかを試みられるため…”(聖クルアーン 672)





イスラーム初期の学者、フダイル・ブン・イヤードはこの節に言及してこう解説しています:





‘あなた方の内の誰の行ないが優れているのか’とは、‘誰が最も真摯で正しいか’という意味である。もしも行為が真摯であっても、正しくなければ認められないのである。真摯であり、なおかつ正しくない限りは認められないということなのだ。





誠実さと行為しさがによってされる日常的として、商品売買げられます。預言者はこのように述べています:





“もしも彼ら(取引を行なう両者)が正直者で(商品の欠陥などを全て)明確にすれば、彼らの取引は祝福されたものになるだろう。だがもし彼らが嘘をつき、(商品の欠陥などを)隠蔽すれば、彼らの取引の祝福は消滅するのである。2





それでは会話における嘘に関してはどうでしょうか。舌による虚偽、つまり一般的に嘘りと言われるものは、(人々は時としてその罪に陥るにも関わらず)全世界が一致して否定する性質です。もしも神が、かれの最後、そして最も偉大な預言者を嘘りによって懲罰したとすれば…





“もし彼(使徒)が、われに関して何らかの言葉を捏造するならば、われはきっと彼の右手を捕え、彼の頚動脈を必ず切るであろう。あなた方の内、誰一人として彼を守ってやれないのである。”(クルアーン 69:4447)





…神の預言者でさえそうなのであれば、一体誰に嘘をつくことが許されているでしょうか?そして正直者として知られた預言者ムハンマドはこう言ったのです:





“心が正しくない限り、(神の)しもべの信仰は正しくなく、舌が正しくない限り、心は正しくないのである。そして隣人へ危害を加える者は楽園に入ることはないのだ。3





また預言者は言いました:“一部の人間は、神によって嘘つきであると記録されるまで、習慣的に嘘をつき続けるものなのだ。”(サヒーフ・アル=ブハーリー)





それゆえ習慣的な嘘つきは、あらゆる人々によって―彼自身の身内からでさえも―軽蔑されるものなのです。例えば嘘つき同士はお互いを信用することすら出来ません。そして会話の明瞭さが正直者のしるしであることと同様に、曖昧さ・皮肉・嫌味、そして舌によるあらゆる形の欺瞞と策略はイスラームにおいて非難されています。預言者の言うように、例え冗談における嘘であっても、それは強く咎められるのです:





“例え冗談の嘘であれ、それを止める者に対し、私は楽園の中心にある家を保障する。”4





…また彼はこうも言っています:





“人々を笑わせるために嘘をつく者に災いあれ!彼に災いあれ!彼に災いあれ!”5





預言者に最も親しかった教友、そして彼の後継者でもあるアブー・バクル・アッ=スィッディーク(正直者の意―彼の正直さゆえに預言者が付けた名称)は言っています:





“嘘りに用心するのだ。嘘りは(真の)信仰に反するものだ。6





そしてアブー・バクルの娘であり、預言者の愛妻アーイシャはこのように言及しています:





“嘘をつくことほど預言者―彼に神の慈悲と祝福あれ―によって忌み嫌われていた性質はありませんでした。7





偽善が最も邪悪な性質として挙げられていることは、嘘りへの抑止として十分でしょう。預言者ムハンマドは言いました:





“偽善者には三つの印がある:会話をすれば嘘をつき、約束をすればそれを破り、何かを託されると信頼を裏切ることだ。8





イスラームはその慈悲深さから、私たちに嘘をつくこと自体の忌避だけでなく、間接的に嘘をもたらす危険性のあるものも教えてくれます。





私たちはアーイシャによるもう一つの伝承から、預言者が次のような祈りによって神に嘆願していたことを学ぶことが出来ます:“神よ!私はあなたに全ての罪と負債からのご加護を求めます。”ある者がこう尋ねました:“神の使徒よ、あなたが頻繁に負債に陥ることからの神のご加護を求めるのはどうしてですか?”神の預言者―彼に神の慈悲と祝福あれ―は答えました:“人は負債を抱えると、嘘をつき、約束を破るものなのだ。9





同じく預言者は彼の追従者に、はっきりと次のように命じています:





“あなたに負債をもたらすものを、負債をもたらさないものに取り変えるのだ。正直さの中にこそ安らぎはあり、嘘の中にこそ疑念はある。10





従って信仰者は、精神・言葉・行為において正直であるよう努力することにおいて最大限の決意を要するのと同時に、虚偽・不誠実・欺瞞や偽善に対する最大限の警戒が必要なのです。





“(これは結局)神が、正直な人々に対しその正直さに報われ、またかれが御望みならば、偽信者(偽善者)を罰し、あるいは彼らを赦されるということである。本当に神は、寛容にして慈悲深き御方であられる。”(クルアーン 3324)





 





 



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