再び、ヨブは神に慰めを求めて立ち返り、この最も重い試練に対しても不平一つ言わずに受け入れました。サタンは老人の姿に扮装してヨブに近づきました。老人はヨブに同情心を示し、神は彼の献身や礼拝に報いていないのではないかと教唆しましたが、ヨブは神が「時に与え、時に奪う」のだとし、自身の創造主に満足していると述べました。サタンは激しい怒りを静かにくすぶらせました。サタンは神に「ヨブは丈夫で健康なため、富を再び稼ぎ、より多くの子女を設けることの出来る希望があるのだ」と告げました。サタンはヨブの健康を破壊する許可を求めました。神はサタンの3度目の要求に許可を与えましたが、それはサタンがヨブの魂、心、そして知性に影響力を及ぼさないことを条件としたものでした。
神の御意により、サタンとその取り巻きはヨブの身体に危害を加え始めました。彼は皮膚と骨だけのやつれた状態となり、激痛に苦しみました。またヨブは人々が嫌悪して顔を背けるような病気にも見舞われ、彼の友人や親族は彼から離れていくようになりました。彼の妻だけが彼のもとに留まりました。2人は一文無しとなり、僅かな量の食事を口に運ぶだけのために彼女は召使いとして働かなければなりませんでしたが、彼女は彼の世話をし、絶えず優しさを注ぎました。
これら一連の試練を通して、ヨブは神への従順さを貫きました。彼の唇と舌は神への唱念に勤しみ、決して絶望したり不平を述べたりしませんでした。彼は大きな災厄が降りかかったにも関わらず、神に感謝し続けたのです。サタンは呆然とし、ヨブを神への献身から逸らすことが出来なかったことから、今度はヨブの妻へとターゲットを変更しました。彼は男性の姿になり、過去のこと、そして以前の人生がいかに容易であったかを彼女に思い起こさせました。彼女はヨブのもとへ行き、涙ながらにこう訴えました。「あなたの主に、この災難を取り除いてくれるよう頼んでください」
ヨブは悲しくなり、神が彼らに富、子女、そして健康を80年間に渡り祝福してきたこと、そしてこの災難は比較的短期間に過ぎないことを彼の妻に思い出させました。彼は災難の除去を神に頼むことは恥ずかしいことだと言い、もしも彼の健康が回復したのなら、彼女を100回打つだろうと誓って叱り付けました。ヨブの妻は悲しみに打ちひしがれ、家を出ていきました。ヨブは自分の無力さに失望して神に立ち返り、不平を述べる代わりに慈悲を求めました。
“「本当に災厄がわたしに降りかかりました。だがあなたは、慈悲深いうえにも慈悲深い方であられます。」それでわれはこれに応えて、かれに取り付いた災厄を除き、かれに家族を授け、その人々を倍加した。(これは)われからの慈悲であり、またわれに仕える者に対する訓戒である。”(クルアーン21:83−84)
神は、間もなくしてヨブの健康を回復させました。ヨブの妻は、愛する夫から離れていることに耐えられなくなり家に帰ると、彼が回復しているのを見て驚愕しました。彼女は大声で神に感謝しましたが、ヨブは不安になりました。彼は彼女を打つと誓っていたからです。彼は彼女を心から愛していたため、彼女を打つことを望んではいませんでした。神は忠実で忍耐強いしもべの心に平穏を与えることをお望みになり、こう述べられました。“「一握りの草を手に取って、それで(妻を)打て。あなたの誓いを破ってはならない。」”(クルアーン38:44)
預言者ムハンマドにまつわる伝承から、神がヨブの富も回復されたことも分かっています。ある日、彼が沐浴をしていたとき、神は彼の上に金で出来たイナゴを降らせたと言われています1。神はヨブの忍耐に豊富な報奨をされたのです。彼の健康は回復し、彼の家族は彼のもとに戻ってその数をさらに増やし、彼は再び裕福な人物となったのです。
神は、ヨブの物語が私たち皆にとっての助言であると述べています(クルアーン38:84)。人が完全なる服従によって神を崇拝するのであれば、それには忍耐が必要になります。数日もしくは数週間に渡って崇拝をすることは容易ですが、それは継続的なものでなければなりません。夜間の礼拝には忍耐が必要とされ、断食には忍耐が必要とされ、試練や苦難の中で生きることには忍耐が必要とされるのです。現世の人生は試練であり、その試練に合格し、楽園の報奨を勝ち取るためには、ヨブのような忍耐を身に付けることが必要とされるのです。
“本当に神は、アダムとノア、そしてアブラハム一族の者とイムラーン一族の者を、諸衆の上に御選びになられた。かれらは、一系の子々孫々である。神は全聴にして全知であられる。イムラーンの妻がこう(祈って)言った時を思え、「主よ、わたしは、この胎内に宿ったものを、あなたに奉仕のために捧げます。どうかわたしからそれを御受け入れ下さい。本当にあなたは全聴にして全知であられます。」それから出産の時になって、かの女は(祈って)言った。「主よ、わたしは女児を生みました。」神は、かの女が生んだ者を御存知であられる。男児は女児と同じではない。「わたしはかの女をマリアと名付けました。あなたに御願いします、どうかかの女とその子孫の者を、呪うべき悪霊から御守り下さい。」”(クルアーン3章33〜36節)
マリアの幼少期
“それで主は、恵み深くかの女を嘉納され、かの女を純潔に美しく成長させ、ザカリーヤーにかの女の養育をさせられた。ザカリーヤーが、かの女を見舞って聖所に入る度に、かの女の前に、食物があるのを見た。かれは言った。「マリアよ、どうしてあなたにこれが(来たのか)。」かの女は(答えて)言った。「これは神の御許から(与えられました)。」本当に神は御自分の御心に適う者に限りなく与えられる。”(クルアーン3章37節)
敬虔な信仰者マリア
“天使たちがこう言った時を思い起せ。「マリアよ、誠に神はあなたを選んであなたを清め、万有の女人を越えて御選びになられた。」「マリヤよ、あなたの主に崇敬の誠を捧げてサジダしなさい。ルクーウ(立礼)するものと一緒にルクーウしなさい。」これは幽玄界の消息の一部であり、われはこれをあなたに啓示する。かれらが籤矢を投げて誰がマリヤを養育すべきかを決めた時、あなたはかれらの中にいなかった。またかれらが相争った時も、あなたはかれらと一緒ではなかった。”(クルアーン3章42〜44節)
出産の吉報
“また天使たちがこう言った時を思え。「マリヤよ、本当に神は直接ご自身の御言葉で、あなたに吉報を伝えられる。マリヤの子、その名はイエス・キリスト、かれは現世でも来世でも高い栄誉を得、また(神の)側近の一人であろう。かれは揺り籠の中でも、また成人してからも人びとに語り、正しい者の一人である。」かの女は言った。「主よ、誰もわたしに触れたことはありません。どうしてわたしに子が出来ましょうか。」かれ(天使)は言った。「このように、神は御望みのものを御創りになられる。かれが一事を決められ、『有れ。』と仰せになれば即ち有るのである。」主は啓典と英知と律法と福音とをかれに教えられ、そしてかれを、イスラエルの子孫への使徒とされた。(イエスは言った。)「わたしは、あなたがたの主から、印を齎したのである。わたしはあなたがたのために、泥で鳥の形を造り、それに息を吹き込めば、神の御許しによりそれは鳥になる。また神の御許しによって、生れ付きの盲人や、癩患者を治し、また死者を生き返らせる。またわたしは、あなたがたが何を食べ、何を家に蓄えているかを告げよう。もしあなたがたが(真の)信者なら、その中にあなたがたへの印がある。わたしはまた、わたしより以前に下された律法を実証し、またあなたがたに禁じられていたことの一部を解禁するために、あなたがたの主からの印を齎したのである。だから神を畏れ、わたしに従いなさい。.本当にわたしの主は神であり、またあなたがたの主であられる。だからかれに仕えなさい。これこそは、正しい道である。」”(クルアーン3章45〜51節)
“またこの啓典の中で、マリア(の物語)を述べよ。かの女が家族から離れて東の場に引き籠った時、かの女はかれらから(身をさえぎる)幕を垂れた。その時われはわが聖霊(ガブリエル)を遣わした。かれは1人の立派な人間の姿でかの女の前に現われた。かの女は言った。「あなた(ガブリエル)に対して慈悲深き御方1の御加護を祈ります。もしあなたが、主を畏れておられるならば(わたしに近寄らないで下さい)。」かれは言った。「わたしは、あなたの主から遣わされた使徒に過ぎない。清純な息子をあなたに授ける(知らせの)ために。」かの女は言った。「未だ且つて、誰もわたしに触れません。またわたしは不貞でもありません。どうしてわたしに息子がありましょう。」かれ(天使)は言った。「そうであろう。(だが)あなたの主は仰せられる。『それはわれにとっては容易なことである。それでかれ(息子)を人びとへの印となし、またわれからの慈悲とするためである。(これは既に)神の御命令があったことである。』”2(クルアーン19章16〜21節)
純潔な懐妊
“また自分の貞節を守った女(マリア)である。われはかの女にわが霊を吹き込み、かの女とその子を万有のための印とした。”3(クルアーン21節91章)
イエスの生誕
“こうして、かの女はかれ(息子)を妊娠したので、遠い所に引き籠った。だが分娩の苦痛のために、ナツメヤシの幹に赴き、かの女は言った。「ああ、こんなことになる前に、わたしは亡きものになり、忘却の中に消えたかった。」その時(声があって)かの女を下の方から呼んだ。「悲しんではならない。主はあなたの足もとに小川を創られた。またナツメヤシの幹を、あなたの方に揺り動かせ。新鮮な熟したナツメヤシの実が落ちてこよう。食べ且つ飲んで、あなたの目を冷しなさい。そしてもし誰かを見たならば、『わたしは慈悲深き主に、斎戒の約束をしました。それで今日は、誰とも御話いたしません。』と言ってやるがいい。」それからかの女は、かれ(息子)を抱いて自分の人びとの許に帰って来た。かれらは言った。「マリアよ、あなたは、何と大変なことをしてくれたのか。アロンの姉妹よ、あなたの父は悪い人ではなかった。母親も不貞の女ではなかったのだが。」そこでかの女は、かれ(息子)を指さした。かれらは言った。「どうしてわたしたちは、揺籠の中の赤ん坊に話すことが出来ようか。」その時)かれ(息子)は言った。「わたしは、本当に神のしもベです。かれは啓典をわたしに与え、またわたしを預言者になされました4。またかれは、わたしが何処にいようとも祝福を与えます。また生命のある限り礼拝を捧げ、喜捨をするよう、わたしに御命じになりました。またわたしの母に孝養を尽くさせ、高慢な恵まれない者になされませんでした。またわたしの出生の日、死去の日、復活の日に、わたしの上に平安がありますように。」”(クルアーン19章22〜33節)
“イエスは神の御許では、丁度アダムと同じである。かれが泥でかれ(アダム)を創られ、それに「有れ。」と仰せになるとかれは(人間として)存在した。”5(クルアーン3章59節)
“またわれは、マリアの子とその母を印となし、両人を泉の涌き出る安静な丘の上に住まわせた。”6(クルアーン23節50章)
マリアの卓越性
“また神は、信仰する者のために例を示される。ファラオの妻である。かの女がこう言った時を思い起しなさい。「主よ、楽園の中のあなたの御側に、わたしのため家を御建て下さい。そしてファラオとその行いから、わたしを救い、不義を行う者から、わたしを御救い下さい。」またわれは自分の貞節を守ったイムラーンの娘マリア(の体内)に、わが霊を吹き込んだ。かの女は、主の御言葉とその啓典を実証する、敬虔な(しもべの)一人であった。”(クルアーン66章11〜12節)