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私は彼と月を見始めました、彼は赤いマントを着ていました、そして彼は私よりも月よりも美しいように見えました。」(アル・ティルミディ)これはジャビル・イブン・サムラが最後の預言者を説明した方法です、敬虔な族の首長、信者の王子、最も慈悲深い者の1人–神の使者、ムハンマド。彼は丸くて白くて公正な快適な顔をしていた。彼の髪は耳たぶに落ちた。あごひげは太くて黒い。彼が喜んだとき、彼の顔は明るくなった。彼の笑いはほほ笑むにすぎなかった。彼の目は黒っぽく、彼のまつげは長かった。彼の長い眉は曲がっていた。アブドラ・イブン・サラームの目がメディナの主なラビは顔に落ち、そのような高貴な顔はうそつきの顔にはなりえないと宣言しました!彼は中くらいの身長で、背が高くも低くもありませんでした。彼は日焼けした革のサンダルを着ていました。彼のズボンは彼のすねの真ん中まで、または時には彼の足首のすぐ上まで達しました。彼の背中には、左肩に向かって「予言の封印」がありました。ほくろのような斑点のある鳩の卵の大きさでした。彼の手のひらは絹の錦よりも柔らかく描かれていました。彼は遠くから近づいたとき、彼の香りに認識されました。彼の汗の滴は真珠のようであると説明されていました。彼の仲間達は彼の汗を集めて彼らの香水と混合し、それにより彼らをさらに香り高くしました!イスラムの教義は、誰かが記述されたように夢の中で預言者のビジョンに祝福された場合に成り立ち、実際、彼らは彼を見た。彼は長い間沈黙を守り、沈黙したときに最も威厳のある人物でした。彼は話すとき、彼は耳に心地よい声で真実だけを発しました。彼は今日多くの人々がするように急速に話しませんでした。むしろ彼は明確なスピーチで話し、彼と一緒に座った人がそれを覚えられるようにしました。彼のスピーチは、彼の言葉を数えたいと思った人なら誰でも簡単にできるようなものだと説明されていました。彼の仲間は彼を下品でも卑猥でもないと説明した。彼は人々を呪ったり、虐待したりしませんでした。彼は単に「そのような人々の問題は何か」(Saheeh Al-Bukhari)と言って叱責しただけでした。彼に対する最も不快な行為は嘘でした。時々、彼は自分自身を2回または3回繰り返して、リスナーが彼をよく理解できるようにしました。彼は短い説教をするでしょう。説教をしている間、彼の目は真っ赤になり、彼の声は上がり、彼の感情は敵からの差し迫った攻撃の警告であるかのように見えます。彼は贅沢や贅沢のないシンプルな生活を送った。彼は世俗的な生活を背中に置き、それから背きました。彼はそれを楽園ではなく刑務所であると考えました!彼が望めば、彼の宝物の鍵が彼に提示されたので、彼は彼が望むものは何でも持っていたかもしれないが、彼はそれらを受け入れることを拒否した。彼は世俗的な人生に来るために人生のシェアを交換しませんでした。彼はそれが廊下であり、永住地ではないことを知っていました。彼はそれがレジャーパークではなくトランジットステーションであることを十分に理解しました。彼はその真の価値のためにそれを取った-すぐに分散する夏の雲。けれども神は彼を貧困から彼を豊かにしたと言いました:「彼はあなたを貧しく見つけてあなたを豊かにしませんでしたか?」 (コーラン93:8)彼の妻であるアイシャは言った:「ムハンマドの家族が彼らの家で火をつけなかった間、月が過ぎました。彼らは2つの事柄-日付と水-で生活していた。彼の隣人であったメディナの住民の中には、羊から牛乳を送り、それを飲んで家族に与える人もいた」と述べた(Saheeh Al-Bukhari、Saheehイスラム教徒)。メディナに到着してから亡くなるまでの約3年間、約10年!これで真夜中に立ち、祈りの中で主に感謝の意を表しました。妻が彼に神を崇拝する理由を尋ねるとき、彼の唯一の返答は次のとおりです。「私は神の感謝のしもべになりませんか?」(Saheeh Al-Bukhari、Saheeh Muslim)彼の1人であるOmar仲間、彼が空腹で過ぎた日を思い出して、時々預言者は彼の空腹を満たすために腐ったデートさえしなかったと言いました!もう一人の伴侶で目撃者であるアブドラ・イブン・マスウドは、ムハンマドが彼に神の慈悲と祝福が訪れたとき、眠りから覚めたとき、彼が使用したナツメヤシの葉でできたマットの跡があったと言います眠るために彼の体にエッチングされました。アブドラは不平を言いました:「私の父と母はあなたのために苦しめられます!なぜあなたはあなたがあなた自身を守ることができる何か(より柔らかい)をあなたに準備させなかったのですか?」彼は答えた:「私はこの世界とは何の関係もありません。私は、木の陰の下で短時間停止し、休憩した後、彼は再び旅を再開し、木を残したライダーのようにこの世界にいます。 」(アルティルミディ)血の川をこぼし、頭蓋骨のピラミッドを建てることで、歴史の記録にあるさまざまな征服者が知られています。ムハンマドは、神の憐れみと祝福が彼の上にあるように、彼の許しで知られています。彼は、戦いで戦っていない限り、彼を不当に扱った誰からでも、女性でもしもべでも、誰も彼の手で誰も打たなかったほどの復讐はしなかった。彼の赦しは、8年間の亡命後、征服者としてメッカに入る日に見ることができました。彼は彼を迫害し、彼と彼の家族を、狂人、詩人、または所有者であると非難していた険しい山々に3年間亡命させた人々を許しました。彼は、妻のハインドとともに、昼も夜も彼を迫害しようと企てた人々の中で最も邪悪な人の一人であるアブ・スフィアンを許した。預言者のイスラム教の叔父の死体を切除し、戦闘能力で知られる激しい奴隷であるワーシに殺害を命じた後、生の肝臓を食べ、後にイスラムを受け入れるようになった。他に誰がそのような高貴な性格の基準にあるが、最も高潔で最も真実な神の使者であろうか?かつてメッカに住んでいたワシは、預言者の叔父を殺害したことでハインドから解放されました。イスラームがメッカで支配権を獲得したとき、ワシはメッカからタイフへ逃げました。結局、タイフもイスラム教徒に屈した。彼はムハンマドがイスラムを受け入れた人を誰でも許すだろうと言われました。犯罪はひどいものでしたが、ワシは勇気を出して慈悲の預言者のところに行き、イスラム教を発表し、ムハンマドは彼を許しました。彼の許しはHabbar ibn Aswadにまで及んだ。預言者の娘ザイナブがメッカからメディナに移住していて、メッカは彼女を止めようとしました、ハバーはそれらの一人でした。彼は預言者の妊娠中の娘をラクダから落とした。その結果、彼女は赤ん坊を失った。ハバールは罪の罪から逃げてイランに逃げましたが、神は預言者に心を向けられました。それで、彼は預言者の法廷に来て、彼の罪悪感を認め、信仰の証しを受け、そして預言者によって許されました!ムハンマドは神の許可を得て肉体的な奇跡を行いました。彼は月に指を向けるだけで月を二つに分けました。ミラジと呼ばれる神秘的な旅で、彼はメッカからエルサレムまで天空の山アルブラクを旅し、すべての預言者を祈りに導き、その後、7つの天を越えて彼の主に会いました。彼は病人と盲人を治療した。悪魔は彼の命令によって取り憑かれたままにします、彼の指から水が流れ、彼の食物は神を賛美しました。それでも彼は最も謙虚な男性でした。彼は地面に座り、地面で食べ、そして地面で寝ました。仲間は、見知らぬ人が彼がいる場所で集まりに入ると、彼の謙虚さのために預言者を仲間から区別することができないと語った。彼のしもべであるアナスは、彼の9年間の奉仕において、高貴な預言者が彼を懲らしめたり、彼を何のためにも非難したりしないことを誓いました。彼の周りの人々は、ムハンマドはとても謙虚で、小さな女の子でさえ彼の手を握って、彼女が望むどこへでも連れて行くことができると説明しました。彼は病気の人を訪ね、彼らの葬列に出席するために、イスラム教徒の間で弱者になっていた。彼はかつてキャラバンの後ろにいて弱者を助け、彼らのために祈っていました。彼は彼らが必要とすることを彼らのために達成するまで、未亡人や貧しい人と一緒に歩くことを躊躇しませんでした。彼は奴隷でさえ招待に応じて、彼らと一緒に大麦パンしか食べませんでした。彼は妻にとって最高の男性でした。彼の妻であるアイシャは彼がいかに謙虚であるかを説明しました。 。彼は普通の人間で、シラミを探して服を探し、羊を搾乳し、自分で家事をしていました。」 (Saheeh Al-Bukhari)実際、彼は家族にとって最高の人でした。彼の性格は、人々が彼から追い出されないほどでした!私たち自身よりも私たちを愛さなければならない、神が次のように述べられている神の高貴な預言者は、そうでした私たち自身よりも私たちを愛さなければならない、神が次のように述べられている神の高貴な預言者は、そうでした





私は彼と月とを見比べた。彼は赤いマントを身にまとっていた。そして私には、彼が月よりも美しく見えた。”(アッ=ティルミズィー





これが、ジャービル・ブン・サムラによって描写された、最後の預言者、敬虔なる者たちの長、信仰者たちの王、慈悲遍き御方により選ばれた神の使徒ムハンマドです。





彼は丸顔で白い肌の持ち主でした。彼の髪の毛は耳たぶに届くほどの長さで、黒く濃い髭をたくわえていました。彼の顔は嬉しい時には光り輝き、声に出して笑う代わりによく微笑みました。彼の瞳は長いまつ毛によって覆われており、眉毛は弧を描いていました。彼の美しさは、マディーナのラビ(ユダヤ教の宗教的指導者)の長だったアブドッラー・ブン・サラームが彼の顔を目にした時、このような高貴な顔の持ち主が嘘つきであるはずがない、と宣言したほどです。





彼は中背で、身長は高くも低くもありませんでした。彼は前かがみに歩き、革サンダルを着用していました。彼のズボンの丈は脛の中間、またはくるぶしのすぐ上まで垂れていました。





また彼の背中の左肩のあたりには、‘預言者の印’がありました。それはおよそ鳩の卵ぐらいの大きさで、ホクロのようなシミが点在していました。そして彼の手の平は、絹の錦織よりも柔らかかったと伝えられています。





また彼がやって来ると、あたりから芳しい香りが漂ってきました。彼の汗の雫はまるで真珠のようであったと言われています。彼の教友たちが彼の汗を集めて香水に混ぜると、更に良い香りになったそうです。





イスラームの教えでは、もしも誰かが夢の中で預言者を見るという祝福に与かったのであれば、その人物は実際に彼を見たのであるとしています。





彼はたびたび長い時間に渡って沈黙したこともありましたが、その際には非常に威厳があったと言われています。





また彼は、話す時には真実だけを話し、その声は耳に心地よく響きました。彼は今日の人々が話すような早口ではなく、周囲の人々が言ったことを記憶できるような、はっきりとした口調でした。彼の言葉は、もし誰かがその言葉を数えようとしたのであれば、容易にそう出来ただろうと言われています。彼の教友たちは、彼は下品でも不作法でもなかったと述べています。彼は人々を罵らず、虐待もしませんでした。そして叱責する時には、ただ次のような言い方をしました:





“これこれの人々は一体何を考えているのだろうか?”(サヒーフ・アル=ブハーリー





彼にとって最も嫌悪すべき行為とは嘘をつくことでした。彼は時には自分の言葉を二度、または三度と繰り返し、聞く者がしっかりと理解出来るようにしました。彼は説教を短く済ませました。そして説教の際にはあたかも敵の襲来を警告するかの如く、目を充血させ、声を張り上げ、感情をあらわにしたそうです。





彼は贅沢や浪費をせず、質素な暮らしをしました。彼は現世的な暮らしに背を向け、それを捨て去ったのです。彼は現世というものは牢獄であり、楽園などではないと見なしていました。彼がもしそう望めば、欲しいものを何でも手にすることが出来ましたが、それを拒否しました。彼は自身の暮らしを現世的な暮らしでもって交換したりはしなかったのです。彼は現世が単なる回廊であり、永住の場ではないことを知っていました。彼はそれが通過点であり、目的地ではないことを完全に心得ていたのです。彼はその価値を理解していた。それが儚い夢のようなものであるということを。





それにも関わらず、神は彼を窮乏の状態から富ませたと仰せられます:





“またかれは貧しいあなたを、裕福になされたではないか。”(クルアーン 93:8)





Aisha, his wife, said:





また彼の妻の一人であったアーイシャはこう述べています:





“ムハンマドの家族がかまどで火を焚かない日々は一ヶ月にも及びました。彼らは二つのもので生き延びていました―ナツメヤシと水です。彼の隣人だったマディーナの住人が羊の乳を届けて来ましたが、彼はそれを飲んだ後、家族にも分け与えていました。”(サヒーフ・アル=ブハーリー、サヒーフ・ムスリム





彼女によると、マディーナへの移住から彼の逝去までの十年間の間、ムハンマドの家族が小麦のパンを三日間連続で満足に食したことは、ただの一度もなかったそうです。





その上、彼は深夜に起き上がり、礼拝を捧げて神に感謝の気持ちを表していました。その礼拝の余りの長さゆえに、彼の両足は腫れ上がるほどだったのです。彼の妻たちが、なぜそこまで熱心に崇拝が出来るのかを彼に訊ねた時、彼の唯一の言葉は次のようなものでした:





“私は感謝する僕であるべきではないだろうか?”(サヒーフ・アル=ブハーリー、サヒーフ・ムスリム





教友の一人だったウマルは、飢饉の日々を回想しながら言っています。預言者は時には飢えをしのごうとしても、腐ったナツメヤシさえ見つけることが出来なかったと!





別の教友であり、預言者時代の証言者でもあるアブドッラー・ブン・マスウードはこう伝えています。ある時ムハンマド(神の慈悲と祝福あれ)が眠りから覚めた時、その体にナツメヤシの木の葉で出来た敷物による跡が刻み込まれていたため、彼はこのように訴えました:





 “私の両親があなたの犠牲となりますように!なぜあなたは私たちに何か(もっと柔らかいもの)を用意させなかったのですか?”





彼は答えました:





 “私はこの現世とは何の関わりもない。私は例えるなら、木の陰で一時の休憩をとる旅人であり、少し経てば旅を再開し、その木を後にするのだ。”(アッ=ティルミズィー





歴史上の様々な征服者たちは、血の川を流し、どくろのピラミッドを建てたことで知られます。ムハンマド(神の称賛あれ)はその慈悲深さで知られていました。彼は戦いにおいて以外、決して不正への復讐として、女性や召使いに手を上げたりはしませんでした。彼の慈悲深さは、八年間もの間追放された後、征服者としてマッカ入城をした日の出来事に如実に見て取れます。





預言者は彼を迫害し、更に狂人、詩人、悪霊に取り憑かれた者というレッテルを張り、彼を家族と共に3年間岩だらけの山岳地帯に追放した人々を赦したのです。彼は自分を朝に夕に迫害した、最も悪意に満ちていたアブー・スフヤーン、そして強靭さで知られていた奴隷ワハシに命じてイスラームに改宗した預言者の叔父を殺させた上、その遺体を損傷し、さらに肝臓を取り出してそれに噛み付いたアブー・スフヤーンの妻ヒンドまでを特赦したのです。その後、彼らはイスラームへと改宗しました。高潔で誠実な神の使徒以外に誰が、このような崇高な性格であることが出来るでしょうか?





マッカに住んでいたワハシは、預言者の叔父殺害の任務を果たすことによって自由民となることが出来ました。マッカにおいてイスラームが支配的となったとき、ワハシはマッカからターイフへと逃亡しました。やがてターイフにもムスリムの勢力が及びました。彼は、イスラームを受け入れた者は、いかなる者であったとしても、ムハンマドによって赦されていることを耳にしました。彼の罪は途方もなく大きなものでしたが、ワハシは勇気を出して慈悲深き預言者のもとを訪れてました。そして彼がイスラーム改宗を宣言すると、ムハンマド(神の慈悲と祝福あれ)は彼を赦したのです。





彼の慈悲は、ハッバール・ブン・アスワドにまで差し伸べられました。預言者の娘ザイナブがマッカからマディーナへと移住した際、ハッバールを含むマッカ勢は彼女らを阻止しようと試みました。彼は妊娠中だった預言者の娘をラクダから振り落とし、それが原因で彼女は流産しました。この罪の意識から彼はイラン方面へと逃亡しましたが、神は彼の心を預言者のもとへと向けさせたのです。それで彼は預言者の裁きの場に赴いて自身の罪を認め、信仰宣言をしたことによって、預言者により赦されたのです。





ムハンマド(神の慈悲と祝福あれ)は、神のお許しによって幾多の物理的奇跡を起こしました。彼が単に指を向けただけで、月は半分に割れました。ミアラージュとして知られている神秘の旅では、アル=ブラークという天馬に乗ってマッカからエルサレムまで一夜にして移動し、全ての預言者たちを礼拝で先導し、七天を超えて彼の主に謁見しました。彼は病人、盲人を癒し、憑依された者から悪魔を去らせ、指から水をほとばしらせ、さらに彼の食べ物は神を讃えました。





それにも関わらず、彼は人々の中でも最も謙遜深い人物でした。彼は地面に座り、地面で食べ、地面で寝ました。ある教友によると、もしも預言者がいた集まりによそ者が入って来たのであれば、彼の控え目な態度から誰が預言者で誰が教友か見分けがつかなかっただろうと述べています。彼の召使いだったアナスは、彼へ奉仕した九年間の内、非難はおろか叱咤されたことさえ一度もなかったと誓っています。彼の周囲の人々は、ムハンマドが余りにも慎み深かったため、幼い少女でさえ彼の手を引き、どこでも好きな所へ連れて行くことが出来たほどだったと説明しています。また彼はたびたび無力なムスリムたちの元を訪れ、病人を見舞ったり、葬儀に参列したりしました。彼はいつもキャラバンの後方に留まって弱者を助け、彼らのために祈りを捧げていました。また彼は未亡人や困窮者などの要望が満たされるまで、彼らと共に歩くことをためらいませんでした。更に彼は奴隷たちの誘いにさえ応じ、粗末な大麦のパンを彼らと食したのです。





彼は妻たちにとっても最善の男性でした。彼の妻アーイシャは、彼がいかに謙虚であったかをこう描写しています:





 “彼は自分の家族のために尽くし、礼拝の時が来ると身を浄めて礼拝へ行きました。彼は自分のサンダルをつぎ当て、自分の衣服を縫い合わせました。彼は衣服の中のシラミを探し、羊の乳を搾り、自分の雑用をこなす、普通の人間だったのです。”(サヒーフ・アル=ブハーリー)





実に、彼は自分の家族に対して最善を尽くす人物でした。彼はその性格から、人々を追い払うようなことは決してしなかったのです。





これが、私たちが誰よりも愛すべき、高潔な神の預言者です。神は彼についてこのように仰せられています:





“本当にアッラーの使徒は、アッラーと終末の日を熱望する者、アッラーを多く唱念する者にとって、立派な模範であった。”(聖クルアーン 33:21)





予備的な諸問題


バイブル(旧約聖書または新約聖書)とは、ユダヤ教とキリスト教双方の聖典のことです。キリスト教のバイブルは新約聖書と旧約聖書によって構成されていますが、カトリック教会と東方正教会版の旧約聖書はプロテスタント教会によって聖典として認められていない巻を含むため、その内容量に多少の違いが見られます。尚ユダヤ教のバイブルは、キリスト教徒も良く知る旧約聖書のみです。また更にはユダヤ教とキリスト教の聖典としてのバイブルの配置には、それぞれかなりの違いが見られます。[1]  そして預言者ムハンマドは、旧約聖書と新約聖書のいずれにおいても言及されています。





イエスとその使徒たちは、アラム語を使用していたとされます。アラム語は西暦650年位までは広く使用されていましたが、その後アラビア語に取って代わられました。[2]  現在のバイブルはアラム語の原典ではなく、ギリシャ語とラテン語版に基づいています。





尚ムスリムがバイブルの予示を引用するといっても、それは決して彼らが現在のバイブルが完全なる神の啓示であることを認めるわけではありません。過去の啓典に関するイスラームの信条に関しては、ここをクリックして下さい。





またある預言者が過去の預言者によって予言されることは、その預言者性を認める前提条件となるわけでもありません。モーゼはファラオへ遣わされた預言者でしたが、彼はそれ以前の誰にも予言された訳ではありませんでした。アブラハムはニムロドへ遣わされた神の預言者でしたが、彼もまた誰からか予言されたわけではありません。またノア、ロト、そしてその他の預言者たちも神に遣わされた真の預言者でしたが、彼らについての予言もされてはいませんでした。預言者の真実性に対する証拠は彼らに対する過去の予言に限定されるのではなく、その預言者によってもたらされた教え、奇跡など、その他の要素も含まれるのです。





予言に関する議論は慎重に取り組まれなければなりません。それにはバイブルの異なる版本と翻訳の推移、近年になって発見された原本の断片、そしてヘブライ語、ギリシャ語、アラム語の語句の検索、更にそれらの調査研究が必要になってきます。しかし“印刷機の登場前(15世紀)には、どのバイブル写本にも文章の違いが認められた”[3]  ことにより、この仕事は難解さを極めるのです。これは一般人にとっては容易ではない課題です。それゆえ最も信頼の置ける証言は予言に関する問題について熟知した、この分野における過去と現在の専門家たちによるものとなるのです。





私たちは過去のユダヤ教徒のラビ、そしてキリスト教徒の修道士が、ムハンマドはバイブルで明示された予言の実現であると証言している記録を見出すことが出来ます。以下にそれに関するいくつかの例を挙げましょう。





待望されていた預言者の誕生


イスラーム以前のアラビア半島におけるユダヤ教徒とキリスト教徒は、新しい預言者の誕生を待ち焦がれていました。ムハンマドの登場前のアラビア半島はユダヤ教徒、キリスト教徒、多神教徒のアラブ人たちによってたびたび争いが繰り返されて来ました。ユダヤ教徒とキリスト教は、“アブラハムの宗教を再生させる文盲の預言者が現れる時が来た。我々は彼の仲間となり、あなた方と壮絶な戦争を起こすだろう。”と言っていたのです。しかしムハンマドが実際に現れると、彼らのある者たちは彼を信じましたが、他の者たちは拒否しました。これが、次の啓示が下された理由です:





“そしてアッラーの御許から彼ら(ユダヤ教徒とキリスト教徒)のもとに下されたもの(過去の諸啓典)を確証する啓典(クルアーン)が下され、、彼らが心に思っていたものが実際に下ると、――以前から不信心の者に対し勝利をお授け下さいと願っていたにも関わらず――彼らはその信仰を拒否する。アッラーの呪いは必ずや不信心者の上に下るであろう。”(クルアーン 2:89)





ムハンマドの預言者性の第一の証人は、キリスト教徒の修道士だったブハイラでした。彼はムハンマドがまだ若いころ、彼の預言者性を認識し、彼(ムハンマド)の叔父にこう告げたのでした:





“・・・あなたの甥には偉大なる祝福が待ち受けている。早く彼を家に帰しなさい。”[4]





 





第二の証人は、ムハンマドとの遭遇後まもなく命を引き取った、キリスト教学者のワラカ・ブン・ナウファルでした。ワラカは、ムハンマドがモーゼやイエスと全く同様の、啓示を授かった預言者であると証言したのです。[5]





尚マディーナのユダヤ教徒たちは、預言者の誕生を心待ちにしていました。第三、第四の証人は、彼らの有名なラビ、アブドッラー・ブン・サラームと、ムハイリクでした。[6]





第五、第六の証人は、同じくイエメン人のユダヤ教ラビだったワハブ・ブン・ムナッビフと、カアブ・アル=アハバル(西暦656年没)でした。カアブはバイブルの中で、モーゼによって予言された、新預言者に関する称賛と描写の長い記述を見つけたのです。[7]





クルアーンにはこう述べられています:





“イスラエルの子孫の学者たちがこれを知っていることは、彼ら(マッカの多神教徒)にとって、一つの印ではないのか。”(クルアーン 26:197)





クルアーンを著したのは誰なのでしょうか?それは何者かによって創り出されたものでなければなりません。人類の歴史において、クルアーンのような世界的に有名な本を残してきた砂漠の民が、一体これまで何人いたでしょうか?そこには過去の諸国家、諸預言者、諸宗教、また当時まだ発見すらされていなかった科学的事実などに関する驚くべき詳細が記されています。これら全ての情報源は一体何だったのでしょうか?もし私たちがクルアーンの神的起源を否定するのであれば、そこにはほんのいくつかの選択肢しか残されません:





ー預言者ムハンマド自身による著。





ー彼による誰かの模倣。この場合、彼はユダヤ人かキリスト教徒、あるいはアラビア半島における異国人から借用したことになります。当時のマッカの民は、彼ら自身からの盗用であると主張する程でした。





そして神による簡潔な回答はこうです:





“また彼らは言う。「昔の物語で、それを彼が書き下したのである。それを朝夕、口で言って書き取らせたのである。」言え(ムハンマドよ)。「これを下されたのは、天地の奥義を知っておられ、本当に寛容にして慈悲深き御方であられる。」”(クルアーン 25:5−6)





ムハンマドが生まれてから一度も読み書きを習ったことのないということは、彼を中傷する人々には周知の事実でした。ムハンマドは、それらの人々と共に生まれ育っているのです。彼らはムハンマドがどのような人々を友とし、どのような人々と旅をしたかを知っていました。彼らはムハンマドの誠実さ、正直さを認めて‘アル=アミーン’(信頼の出来る人、正直者)と呼んでいたのです。[1]  彼らはムハンマドの宣教への反発心ゆえに、彼の非難へと突き動かされていました。それは彼らが考え得るあらゆるものにまで及び、それで彼を魔術師、詩人、更には詐欺師とまで呼んだのです。彼ら自身、彼をどのように呼べば良いのか分からなかった程でした。神は仰せられています:





“彼らが汝に対し、どのような例を挙げて誹謗するかを見るがいい。しかし彼らは迷い去っているため、決して道を見い出せないであろう。”(クルアーン 17:48)





神は天地の全てに通暁する御方であり、過去と現在を知り、その預言者へ真実を啓示するお方なのです。





ムハンマドがクルアーンを著すことの出来た可能性は?





ムハンマドがクルアーンを著すことは、以下に挙げられる理由によって不可能です:





まず、彼が啓示を捏造することの出来たであろういくつかの状況を考察してみましょう。例えば最初の啓示が下された際、人々はそれをもっと聞きたがりましたが、預言者は数ヶ月に渡って何も啓示を受けませんでした。マッカの民は、‘彼の主は彼を見捨てたのだ!’と言って嘲笑し始めたのです。これはクルアーン第93章のアッ=ドハーが下されるまで続きました。預言者は何かを創り出してそれが最新の啓示であると示し、嘲笑を終らせることも出来たはずですが、そうはしなかったのです。 またある時、一部の偽信者たちは、彼の愛妻アーイシャが不貞を働いたと告発しました。預言者は彼女への非難を取り除くための何かを容易に捏造することが出来たはずですが、逆に彼は神の啓示が下され、その告発が虚偽であることが明かされるまで苦しみに苛まれ、嘲笑を受ける恥辱を何日もの間に渡って耐え抜かなければなりませんでした。





次に、それがムハンマドによる著者ではないというクルアーンの内部証拠を検証します。彼は複数の節々において、時に強い調子で批判されているという事実が存在します。彼が偽預言者であれば、どうして自己批判し、自らへの敬意や追従者たちの支持を失うかもしれないような危険を犯す必要があるでしょうか?以下は一部の例です:





“預言者よ、神が汝のために合法とされていることを、ただ汝の妻たちの御機嫌をとる目的だけでなぜ自ら禁じるのだ。本当にアッラーは寛容にして慈悲深くあられる。(クルアーン 66:1)





“・・・だが汝は、神が暴露しようとされた、自分の胸の中に隠していたことが人に知られることを恐れていた。むしろ汝は、神を畏れるべきであった。”(クルアーン 33:37)





“多神教徒のために御赦しを求めて祈ることは、たとえ近親であっても、彼らが業火の住人であることが明らかになった後は、預言者にとり、また信仰者にとり妥当ではない。”(クルアーン 9:113)





“だが熱心に(知識を)求めて汝の許に来た者で、(神に)畏敬の念を抱いている者を、汝は軽視した。断じてそうであるべきではない。本当にこれ(らの節々)は訓戒である。”(クルアーン 80:8−11)





もしも彼が何か隠し事をしていたのであれば、彼はこれらの節々を隠したことでしょう。しかし彼はそれらを忠実に朗誦したのです。





“彼(ムハンマド)は不可視の世界(の知っていること)を出し惜しまない。それ(クルアーン)は、呪われた悪魔の言葉でもない。それなのに汝らはどこへ行こうというのか。これこそは、万人への教訓に他ならない。”(クルアーン 81:24−27)





また預言者は次の節々において注意、あるいは警告を受けています:





 “誠にわれらは、真理をもって汝に啓典を下した。これは神が示されたところによって、汝が人びとの間を裁くためである。汝は背信者を弁護してはならない。神の御赦しを請うのだ。神は寛容にして慈悲深くあられる。自らの魂を歎く者を弁護してはならない。神は背信して罪を犯す者を御好みになられない。彼らは人に(その罪と邪悪な意図を)隠せるが、神に隠しだてすることは出来ない。夜中にかれの御喜びになられないことを策謀する時でも、かれは彼らと共においでになられる。誠に神は、彼らの行う一切のことを御存知であられる。これ、汝らは現世の生活の上で彼らのために弁護している。だが誰が、復活の日に彼らのため神に弁護出来よう。また誰が、彼らの保護者となろうか。悪事を行い、また自分の魂を損っても、すぐに神の御赦しを請うならば、神が寛容で慈悲深くあられることが分るであろう。罪を稼ぐ者は、自分の身にそれを稼ぐだけ。神は全知にして英明な御方であられる。過失または罪を犯して、これを潔白な者のせいにする者は、虚偽と明白な罪を負う者である。もし汝に対する、神の恩恵と慈悲がなかったならば、彼らの一派は、汝(ムハンマド)を迷わそうと企んだであろう。だが彼らはただ自分たち自身を迷わせただけで、少しも汝を損うことは出来ない。神は啓典と英知とを、汝に下し、汝が全く知らなかったことを教えられた。汝に対する神の恩恵こそ偉大である。”(クルアーン 4:105−113)





これらの節々は、マディーナのあるムスリムが鎧を盗み、彼のユダヤ教徒の隣人のもとに隠した状況に言及しています。鎧の所有者がその男に詰め寄った時、彼は自分の悪行を否定し、そしてそれはユダヤ教徒の男のもとから発見されました。そして男はそのムスリムの隣人を指し示し、その犯罪への関わりを否定しました。そのムスリム男性の部族民は預言者を訪れて彼の弁護を求め、預言者も彼らへと傾斜しつつありましたが、その時上記の節々が啓示され、ユダヤ人男性の潔白を明らかにしたのです。ユダヤ教徒たちはムハンマドの預言者性を否定していましたが、それにも関わらずこのような出来事が起きたのです。これらの節々は預言者ムハンマドに対し、詐欺師の肩を持ってはならないと指示しています:





“・・・ 汝は背信者を弁護してはならない。神の御赦しを請うのだ・・・ もし汝(ムハンマド)に対する、神の恩恵と慈悲がなかったならば、彼らの一派は、汝を迷わそうと企んだであろう。 ”





もしもムハンマドがクルアーンを著したのであり、虚偽を働く詐欺師だったのであれば、彼は追従者や支持者たちを失うような要素が一切ないよう念を入れたことでしょう。クルアーンが様々な場面で、預言者が不正確な判断を下すといった特定の事例において彼を譴責している事実は、それが彼による著作ではないことを明確に証明しているのです。



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