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マルコ:言及せず





ルカ:言及せず





ヨハネ:言及せず





墓地にいたのは誰かについて。





マタイ:「ひとりの天使」





マルコ:「ひとりの青年」





ルカ:「ふたりの男性」





ヨハネ:「ふたりの天使」





彼らはどこにいたのかについて。





マタイ:天使は墓の外側で、墓石に座っていた。





マルコ:青年は墓の中の「右側に座っていた。」





ルカ:ふたりの男性は墓の中で隣合わせに立っていた。





ヨハネ:ふたりの天使の「ひとりはイエスの亡骸の頭の場所に座り、もうひとりは足の場所に座っていた。」





イエスを最初に目撃したのは誰かについて。





マタイ:マグダラのマリアと「別のマリア」で、弟子たちに会う道中で。





マルコ:マグダラのマリアのみで、場所については言及せず。





ルカ:弟子の中のふたりが、エルサレムから約11キロ離れたエマオという町に向かっていたとき。





ヨハネ:墓地の外でマグダラのマリアによって。





これでは、この聖典が誰の意向によるものなのかと疑問を抱かせてしまいます。





しかしキリスト教徒たちは、イエスは私たちの罪のために死ななければならなかったとします。次は、それに関する一般的な会話の例です。





一神教徒:では、あなたは神が死んだと信じるのですか?





三位一体論者:いえいえ、そういった考えは棄ててください。死んだのは人間(としてのイエス)だけです。





一神教徒:その場合、つまり人間の部分だけが死んだのであれば、犠牲は神によるものである必要がなかったことになりますが。





三位一体論者:いえいえ。人間の部分は死にましたが、イエス/神は私たちの贖罪のために十字架で受難しなければならなかったのです。





一神教徒:「しなければならなかった」とはどういうことですか? 神は何も「しなければならない」必要はないはずですが。





三位一体論者:神は犠牲を必要としますが、人間はそうしないからです。神には人類の贖罪に必要な大きな犠牲が必要だったため、唯一の息子を遣わしたのです。





一神教徒:そうなのであれば、私たちは神に関して異なる概念を持っていることになります。私の信じる神は、何も必要としません。私の神は、何かを起こすときに他の何かを必要とすることがありません。私の神は「これをしたいが、することが出来ない。まずこの特定のものが必要だ。どこでそれを見つけることが出来るだろうか?」などとは決して言いません。そうしたシナリオの場合、神はその必要性を満たす存在に依存していることになります。言い換えるなら、神にはより高い神の存在が必要になります。厳格な一神教徒にとって、それはあり得ないことです。なぜなら、神は唯一・至高・自給者であり、あらゆる創造物の源泉であるからです。人間には必要性がありますが、神にはありません。私たちは神の導き、慈悲、赦しが必要ですが、神はなにも引き換えを必要とはしません。神は奉仕や崇拝をお望みにはなりますが、それを必要としている訳ではないのです。





三位一体論者:要点はそこなのですよ。神は私たちに神の崇拝を命じ、私たちは礼拝によってそれを行います。しかし、神は純粋で聖なる存在である一方、人類は罪深い存在です。私たちは自らの不純さと罪から、直接神にアプローチすることは出来ないのです。それゆえ、私たちには祈りを受け入れてもらうための仲介者が必要なのです。





一神教徒:質問です――イエスは罪を犯しましたか?





三位一体論者:いいえ、彼に罪はありません。





一神教徒:彼はどれ位純粋なのでしょうか?





三位一体論者:イエスですか? 100%です。彼は神/神の子であり、100%神聖なのです。





一神教徒:しかしあなたの基準に沿えば、私たちは神にアプローチ出来ない以上に、イエスにもそう出来ないことになります。あなたの前提によれば、人類が神に直接祈願することが出来ないのは、罪深い存在と100%神聖な存在の相反性によります。もしもイエスが100%神聖なのであれば、彼が神よりもアプローチし易いということにはなりません。また、もしイエスが100%神聖ではなかったのであれば、彼は多少なりとも汚れた存在となり、神に直接アプローチ出来なかったことになるだけでなく、神ご自身、あるいは神の子、または神の同位者だったということにもなり得ません。





公平な類推としては、極めて誠実な人物に会いに行くことが挙げられます。その人物は地球上で最も聖なる存在で、全身からその神聖さがほとばしっているような人物です。それで私たちは彼に会いに行きますが、「聖人」は面会に合意しないと門前払いをくらいます。彼は罪深い人間と同じ部屋にいることが耐えられないと言うのです。私たちは彼の代理人と話すことは出来るものの、聖人本人と会うことは到底無理だと言われます。彼は私たちのような低俗な存在と同席するには神聖過ぎるそうです。そのとき、私たちはどう感じるでしょうか? それは神聖、それとも狂気に聞こえるでしょうか?





常識的に考えれば、聖人はアプローチしやすいはずです。聖人であればあるほど、それは容易くなるはずです。そうであれば、なぜ人類と神との間に仲介が必要となるでしょうか? そしてホセア6:6に「わたしは慈しみを喜び、犠牲を喜ばない」とあるよう、なぜ神はそのキリスト教徒の主張する「唯一の子」を犠牲に捧げるよう求めたりしなければならないのでしょうか? ここからの教訓としては、新約聖書のふたつの章句が挙げられます。ひとつはマタイ9:13、そしてもうひとつはマタイ12:7です。一体なぜ、聖職者たちはイエスが犠牲に捧げられなければならなかったのだと説くのでしょうか? もし彼がそうして目的によって遣わされたのであれば、なぜ彼は自らの救済を祈ったのでしょうか?





イエスによる祈りは、ヘブライ人への手紙5:7によって説明することが出来るかも知れません。そこでは、イエスは誠実な人物であったため、死からの救いを求めた彼の祈りに神は答えたと述べられています。“キリストは、肉において生きておられたとき、激しい叫び声をあげ、涙を流しながら、御自分を死から救う力のある方に、祈りと願いとをささげ、その畏れ敬う態度のゆえに聞き入れられました。”(ヘブライ人への手紙5:7)それでは、“神が彼の祈りを聞き入れた”とは、何を意味するのでしょう? 神がその叫びを明確に聞きながらも無視したということでしょうか? いいえ、それは神が彼の祈りに答えたということを意味しています。神がその祈りを聞いて、それを拒否したということには決してなりません。なぜなら“その畏れ敬う態度のゆえに”という表現の存在は、“神は彼の祈りを聞いたが、彼は誠実な者だったためにそれを拒否した”といったような意味を成さない章句にはしないためです。





ふむ。ということは、それは元々イエスが十字架にはりつけにされてはいなかったことを示唆しているのではないのでしょうか?





しかし、一歩立ち止まって自分自身に質問してみましょう。なぜ私たちは救済を信じなければならないのでしょうか? 一方で、原罪は信じようが信じまいが、絶対的であると信じられています。また一方では、救済はイエスの十字架へのはりつけと贖罪を認めた(信じた)上での条件付きとなっています。前者において、信じることは無関係であり、後者ではそれが要求されます。ここで疑問が浮かび上がります。「イエスはその代償を払ったのだろうか?」もしそうなのであれば、信じようが信じまいが、私たちの罪は償われているはずです。代償を払っていないのであれば、どちらにせよ関係なくなります。最後になりますが、赦しとは対価のないものです。他人の借金を許しつつ、返済を要求し続けることなどは出来ません。神自身はそれを求めないと述べているにも関わらず(ホセア6:6、マタイ9:13と12:7参照)、神がお赦しになるのは犠牲を捧げた場合のみであるという議論は、到底理にかなった分析ではありません。そのような方程式が一体どこから来るというのでしょう? 聖典(既述されたように、原本に統一性を欠いた、匿名の聖典ですが)によれば、それはイエスではないのです。さらに、キリスト教徒にとっての救済の方程式は、原罪の概念から派生したものであり、もし他のキリスト教の方程式を実証できないのなら、私たちはなぜその概念を信じなければならないのかと疑問を呈すべきなのです。



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