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多くの人々は、真の豊かさや、本物の宝とは、金銭のことであると決め付けてしまっています。豊かさが、神がしもべに授ける偉大な祝福であることは、確かに間違いありません。そしてそれを正しい方法で稼がれ、適切に費やされ、それを必要としている人々に与える者が、神からの多大な報奨を受けることに疑念はありません。





しかしながら、豊かさは人類に与えられる最高の祝福ではありません。さらに、人がいかに富を有していようが、やがてそれは彼の手から離れ去り、他人の手に渡っていくものなのです。預言者ムハンマド(神の慈悲と祝福あれ)は、教友に次のことを質問し、私たちにそのことを思い起こさせます。





 “あなた方のうち、自分自身の財産よりも、自分の相続人の財産を愛する人はいるでしょうか?





彼らは答えました。“神の使徒よ!私たちの中には、自分自身の財産よりも、自分の相続人の財産を愛する者はいません!”





預言者は言いました。“しかし、自分自身の財産とは、費やされたものであり、自分の相続人の財産とは、遺されたものなのである。”(サヒーフ・ブハーリー)





したがって、現実には人の所有する財産の大半は、やがてその人物の相続人の手に渡りますが、神の道において費やされたものは、来世においてもその人物を益し続けることになります。





神はその点をクルアーンにおいて強調します。





 “富と子女はこの世の生活の装飾である。だが永遠に残る善行こそは、主の御許では報奨において最も優れ、また希望(の基礎)としても最も優れたものである。”(クルアーン18:46)





富と子女は現世における楽しみの一つですが、善行は永久に残るものであり、家族や富は残るものではありません。善行こそが神のご満悦に値し、人はそれを行うことによって、来世における永久の報奨を期待することが出来るのです。クルアーンはそのことを明確にします。





 “あなたがたをわれにもっと近づけるものは、財産でも子女でもない。信仰して善行に勤しむ者は、その行いの倍の報奨を与え、高い住まいが保証される。”(クルアーン34:37)





よく知られた、またよく繰り返される比喩として、クルアーンには現世を降雨の後に繁茂するも、しばらくすると萎れてしぼんでしまう作物にたとえている箇所があります。クルアーンはこう述べています。





 “あなたがたの現世の生活は遊び戯れに過ぎず、また虚飾と、たがいの間の誇示であり、財産と子女の張り合いに過ぎないことを知れ。(現世の生活を)例えれば慈雨のようなもので、(作物は)生長して不信心者(農夫)を喜ばせる。やがてそれは枯れて黄色に変り、次いで粉々になり果てるのをあなたがたは見るであろう。だが来世においては(不義の徒に)厳しい懲罰があり、また(正義の徒には)アッラーから寛容と善賞を授かろう。本当に現世の生活は、虚しい欺瞞の享楽に過ぎない。”(クルアーン57:20)





イマーム・アッ=サアディーはこの節の注釈のまとめとして、以下のような非常に美しい文章を記しています:





「この節で、神は我々に現世の真の性質と、それが何を基に成り立っているのか、またその最後と、そこにいる人々の末路について告げ知らせています。かれは、それが単なる戯れと享楽であり、我々の身体はそこで戯れ、我々の心は享楽していることを告げ知らせているのです。そしてこれこそは、現世に従う人々が基づいているものであり、彼らは己の心を享楽で満たすために、人生すべてを無駄にしていることを見いだすことが出来るのです。彼らは神への想念について、そして(来世における)報奨と懲罰について完全に無知なのです。彼らは己の宗教を娯楽や気晴らしとして捉えているのです。





これは意識の高い人々、そして来世のために努力する人々とは対照的なことです。彼らの心は神への想念、神への知識、そして神への愛情に満ち溢れています。そして彼らは、自分たちだけでなく、他者をも益する行為に勤しみつつ、それによって神へのお近付きをしているのです。そして「遊び戯れ」という言葉は、人々が自らの衣服、飲食、移動手段、家屋、邸宅、名声などにおいて、美化しようと試みるという意味です。また、「虚飾と、たがいの間の誇示であり、財産と子女の張り合い」は、誰もが(現世に)愛着を持っており、勝者となるために他者を出し抜こうとしていることを意味しています。人はそれを通して、あらゆる願望が満たされることを望んでいるのです。そして(それは財産と子女において顕著に見られ)、各人は他者よりも多くの財産と子女を望むのです。そしてこれこそは、現世を溺愛し、そこに満足する者たちに起きていることなのです。





しかし、これは現世とその真実を認識する者にとっては対照的なことであり、そうした人物は現世を目的ではなく、通過点とするのです。彼は神へのお近付きにおいて競い合い、約束された目的地へと確実に辿りつけるよう、必要な手段を取るのです。したがって、そうした人物が財産や子女において競い合おうとする者を見ても、彼はその代わりに、善行によってそうした者と競い合うのです。





また、神は現世のたとえ話をします。それは地上に降る雨のようであり、それは人間や動物によって食べられる植物と混ざり、大地はその美をあらわにし、現世より先を見通すことの出来ない不信仰者はその果実に魅了されますが、そこで神の命令が下されます。それは破壊され、枯れ果て、あたかも大地は緑を与えたことのなかったかのように、そして美は存在しなかったかのように、元の状態に戻ります。





現世とはこういったものなのです。それが栄え、美を繁茂させるとき、その宝からは欲するものを取ることができ、何かを達成したければ、その扉は開かれているのを見いだすことが出来るものの、神の定めはあるとき突然振りかかるのです。それによって、現世で稼いだ物質は彼の手から離れ去り、または彼自身がそこから取り除かれ、彼がそこから得ることが出来た唯一のものとは(彼の遺体を包む)白布だけだったのです。それゆえ、現世を目的とし、そのためにすべてを犠牲にし、人生のすべてをそれに捧げる者には深い悲しみがあるのです。





来世における行為には、真の有益なものがあります。そこでは(行為の果実)が貯蓄されており、彼と共に永久に付き添うのです。そのため、神はこのように仰せられています。





 “信仰のない者は、(来世で)厳しい懲罰に会う。だが信仰して善行に勤しむ者には、寛容と偉大な報奨があろう。”(クルアーン35:7)





来世ではその2つのものだけとなります。懲罰とは地獄の業火であり、その穴と鎖、そしてあらゆる恐怖が待ち受けます。それは現世を目的とし、そこを最終的な終着点とし、神に反抗し、そのみしるしを拒絶し、かれの祝福を感謝しなかった者たちのためのものです。





そして神による罪の赦し、あらゆる懲罰の免除、また神によるご満悦は、至福の住処(天国)のために努力をした者たちに対して授けられます。それは、現世の真の性質を認識したゆえに、来世のために真の努力をした者たちのことなのです。





これらすべては私たちの現世への欲求を減退させ、来世への願望を増加させるべきでしょう。そして神はそれゆえ、このように仰せられています。“本当に現世の生活は、虚しい欺瞞の享楽に過ぎない。” このような(現世での)享楽は人が益し、必要性を満たすことの出来るものです。しかし、意思の弱い者たちはそれによって欺かれ、満足し、こうした者たちを、神は詐欺者(シャイターン)によって欺かせることをお許しとなるのです。





現世において、いかに満足した人生を営むかについて。





人がいかに富を築き上げようとも、有効に使えているのは現実には非常に小さな部分だけです。預言者ムハンマド(神の慈悲と祝福あれ)による叡智ある助言について熟考してみましょう。アブドッラー・ブン・アッ=シャヒールはこのように伝えています。





「私は預言者が“アルハークムッ=タカースル(あなたがたは〈財産や息子などの〉多いことを張り合って、現を抜かす。)”(クルアーン102:1)を朗誦している際に彼の所に入りました。すると彼は言いました。『アダムの子(人間)は“私の富!私の富!”と言う。だがアダムの子よ、あなたはそれによって食べ、排泄し、またはそれによって服が古くなるまで着用するが、それによって喜捨をして(来世での報奨を得るために)送り出すこと以外に、役立てているのですか?』」(サヒーフ・ムスリム)





このハディースで預言者は、私たちの富は現実的にはただ3つの方法だけに使われていることを私たちに気付かせます。第一に、私たちの食べる物で、それは最終的には排泄物となります。第二に、私たちの着る衣服で、それはやがてぼろとなり、着用することができなくなってしまいます。第三に、神のために施された富であり、それは有益性が留まり、私たちに帰ってくる唯一のものです。それゆえ、永久に益することのために使われているのは実際にはほんの僅かに過ぎないにも関わらず、人が「自分の富」を満足げに眺め、自慢し、それを熱望し続けることに一体何の利益があるというのでしょうか?





そうした要因によって、預言者ムハンマドは人類に対し、富とは人が所有する物質の量と比例するものではないということを注意しているのです。真の富とは、自分の持っているものに満足し、来世において永続する報奨のために費やそうと努力することなのです。預言者はこのように述べています。





 “富かさとは所有物の量のことではない。真の富かさとは自身の(幸福さにおける)豊かさなのである。”(サヒーフ・ブハーリー)





また、彼はこのようにも述べています。





 “少なくともそれだけで事足りるものは、多いながらも気を散らせるものよりも良いのである。





三つ目のハディースには、こうあります。 



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