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真の内面的平和とは神に従うこと、すなわち人生をかれだけのために生きることと、かれを想起すること、そして現世ではなく来世を優先することにより見出されます。





私たちは、神が既に定められたもの以外には、現世で得ることの出来るものはないということを念頭に入れておかなければなりません。所狭しと働き回り、夜遅くまで寝ず、仕事中毒であったとしても、人は神が既に運命によって定めたものしか得ることが出来ないのです。預言者(神の称賛あれ)は言われました:





“神は、来世を目的とする者の諸事を容易にされ、またその心には(信仰の)豊かさを与えられ、そして世界は彼へと嫌々ながらも従順に従うだろう。”(イブン・マージャ、イブン・ヒッバーン)





このような人物は心の豊かさを得ます。豊かさとは多くの富を所有することではなく、心の富を得ることであり、つまりそれは満足感なのです。これが、人が神に従うことによってもたらされる平和の源泉であり、イスラームの意図するものなのです。





内面的平和とは心からイスラームを受け入れ、イスラームの原則に則った生活をすることです。そうすれば神は人の心に豊かさを据え、世界は彼に従順かつ謙虚に従うのです。そのような人物にとり、世界を追求する必要はありません。





もし人が優先事項-つまり来世-を第一にするのであれば、預言者は成功を約束されています。もし私たちが天国を望むのであれば、その希望は私たちの人生においてもはっきり表れているべきであり、また私たちの第一の焦点であり、優先事項であるべきなのです。





では、いかにして来世に焦点を絞る人を見極めることが出来るでしょうか。誰かと席を共にした時、その人の会話の内容が全て新しい車や高価な住宅、旅行や休暇、お金などの話題といった物質的なことだったり、あるいは噂話や世間話なのであったりすれば、彼の焦点が来世に向けられてはいないことが分かります。もしも私たちの焦点が来世に向けられているのであれば、その会話の内容にそれが反映されているはずなのです。これは私たちが自分自身を審理する最も基本的な材料であるため、私たちは立ち止まってこう自問すべきです:“私たちが話している話題に最も費やされている主題は何だろうか?”





もしも私たちが、現世を第一の目的としているのであれば、私たちはその焦点を合わせ直すべきであり、優先事項を第一に置くべきです。すなわち、この現世での生活よりも来世を優先することであり、そうすることにより私たちは内面的平和を達成することが出来ます。神はクルアーンにおいて、このことが内面的平和を得るための確実な手段であるとして明らかにされています:





“これら信仰者たちは神を念じ、心の安らぎを得る。神を念ずることにより、心の安らぎが得られないはずはないのである。”(クルアーン 13:28)





ゆえに心は、神を念じることのみによって安らぐのです。これこそが内面的平和です。神への想念は、ムスリムとしての行いの全てに含まれています。イスラームは神を念じる生き方であり、神はこのように仰せられています:





“われを念じるべく礼拝に立つのだ。”(クルアーン 20:14)





私たちが(イスラームにおいて)行う全ての行為は、ムスリムとしての神への想起です。神は仰せられました:





“言え。「私の礼拝と奉仕、私の生と死は、万有の主である神のためである。」”(クルアーン 6:162)





従って、私たちの人生のあらゆる側面において神を思い起こすことこそが、内面的平和を達成するための道なのです。





この想起(ズィクル)とは、暗室の角に座って常に「アッラー、アッラー、アッラー・・・」と唱え続けるような、ある種の人々が考えているようなものではありません。これは私たちが神を想起すべき方法ではないのです。そのようなことをする人物は、アッラーの御名を口で言ってはいますが、よく考えてみれば、もし誰かがあなた(名前をムハンマドとします)を訪れて「ムハンマド、ムハンマド、ムハンマド・・・」と言い続けたとすれば、あなたはこの人物を変わった人物と思うでしょう。「彼は何かを欲しがっているのだろうか?」または「何かを必要としているのだろうか?」あるいは「それ以外に何も言わず、私の名を呼び続ける目的は何なのだろうか?」といぶかしげに思うはずです。





それは神を想起する方法ではありません。なぜなら預言者はそういった方法で神を想起しませんでしたし、彼がそうしたという記録も存在しません。またある種の人々は、踊りや左右に揺れる動作を繰り返すことにより神を想起するべきであると主張します。預言者はそのような方法で神を想起しておらず、またそういった記録も無いのです。





預言者は彼の人生において神を想起しました。彼の人生は神を絶えず念じた人生であり、祈りや生死における想起こそが本物の想起なのです。





まとめると、内面的平和の探求には、私たちの生活に存在する諸問題の認識、また私たちの障壁の認識、そしてそれらの障壁が認識され、その内のどれに変化をもたらすことが可能なのかという理解と、変化させることの出来るもの、つまり自分自身に関わるものに対しての努力が関係してきます。





私たちが自分自身を変えて行けば、神は私たちの周りの世界を変え、周囲とうまくやっていける術を私たちにお与えになるのです。例え世界が波瀾万丈であれ、神は内面的平和を私たちにお授けになるのです。





どんなことが起ころうが、それは神による定めや試練であり、それが究極的には私たちのためにとって善いことであり、その背後には英知が潜んでいるのです。神は私たちをこの世界に創造され、それを天国に入るための試練とされましたが、この世界の試練とは、私たち自身の精神的成長のためなのです。もしも私たちがこれらの事実を全て認識し、心から神の存在を認めるのであれば、内面的平和を発見することが出来るはずでしょう。



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