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月の断裂





神により預言者の手を通して行なわれた奇跡の一つとして、マッカの民がムハンマドの主張が真実であるかどうかを試すため、奇跡を起こすよう要求した時のものがあります。神は月を真っ二つに割った後、それを再び元通りにしたのです。クルアーンはこの出来事について記録しています:





 “時は近づき、月は真っ二つに裂けた。”(クルアーン541)





預言者ムハンマドは毎週金曜日の合同礼拝と、年に二回のイード礼拝でこれらの節々を朗誦しました。1  もしもその出来事が起こらなかったのであれば、ムスリムたち自身も自分たちの宗教に対して疑問を抱いたでしょうし、多くは棄教したでしょう。またマッカの民はこう言ったことでしょう。「あなた方の預言者は嘘つきである。月は決して裂けなかったし、我々は実際にそれを目にしなかったのだ。」しかし、実際には信仰者たちの信仰心は増強され、マッカの民による唯一の主張は、「これは相変わらずの魔術だ。」というものだったのです。





“時は近づき、月は真っ二つに裂けた。彼らはたとえ印(奇跡)を見ても、背き去って、「これは相変らずの魔術だ。」と言うであろう。彼らは(訓戒を)虚偽であるとし、自分の欲望に従ってきた。(クルアーン541〜3





月の断裂はその目撃者による証言が、信頼される学者たちによる、途切れることのない多数の伝承経路(ハディース・ムタワーティル)によって伝えられており、それが虚偽であるということは不可能なのです。2





懐疑主義者は言うでしょう。「本当に月が断裂したという歴史的な証拠はあるのか。このような驚異的な出来事は、世界中の人々によって目撃され、記録されているはずだろう。」と。





この質問には二通りの答えがあります。





第一の答えとして、世界中の人々が同時にそれを目撃することは、各地によって日中であったり、深夜であったり、早朝であったりするため、可能ではありません。以下の表ではマッカ時間の夜9時が、世界各地では何時であるかを示しています:





  





また、近隣地の人々が大勢で全く同時刻に月を目撃することは容易いことではありません。そもそも、そうした理由もないのですから。たとえ誰かが目撃したとしても、それによって人々がその目撃者を信じ、そういった事実を記録するとは限りません。当時の多くの文明は、自分たちの歴史を書面によって記録するということをしなかったのです。





また第二の答えとしては、当時のインドの王による、独立した、かつ驚くべき歴史的補強証拠が存在します。





ケララはインドの州の一つです。ケララ州はインド亜大陸の南西部、マラバル海峡沿いに伸びる全長580キロの州です。3マラバルのチャクラワティ・ファルマス王はチェラ王朝を治めていました。彼は月の断裂を目撃したことが記録されています。この出来事は写本に記録されており、現在もロンドンの英国インド省図書館に保存されています(参照番号:Arabic, 2807, 152-173)4。ムスリム商人の集団による中国への旅路の途中でマラバルに留まった際、彼らはアラブ人預言者の出現と、月の断裂という奇跡について王に話しました。衝撃を受けた王は、自分自身もそれを目撃したことを明かし、息子に摂政を務めさせ、預言者に会いに行くべく、アラビア半島へと旅立ったのです。王は預言者に出会い、信仰宣言をし、信仰における基本を学びながらも帰路において亡くなり、イエメンの港町であるザファール5に埋葬されました。





派遣団はムスリムであるマーリク・ブン・ディナールによって先導され、チェラの首都コドゥンガロールにまで続き、西暦629年に、現存するインド最古のモスクを建てたのです。





 





 





 





 





A pre-renovation picture of the Cheraman Juma Masjid, India’s oldest mosque dating back to 629 CE.  Image courtesy of www.islamicvoice.com.





 





改修前のチェラマン・ジュマ・マスジド。西暦629年にまで遡る、インド最古のモスクです。写真提供: www.islamicvoice.com





 





彼によるイスラーム改宗の知らせはケララに届き、人々もイスラームへと改宗しました。ケララ州カリカットのラクシャディープ諸島とモプラスの人々は、当時改宗した人々の末裔なのです。





 





改修後のチャラマン・ジュマ・マスジド。インド初の改宗ムスリムであるチェラマン・ペルマル・チャクラワティ・ファルマスにちなんで命名されています。写真提供:www.indianholiday.com





 





 





インドからの目撃、及びインドの王と預言者ムハンマドとの対面は、ムスリム側の史料からも伝えられています。著名なムスリム歴史家であるイブン・カスィールは、インド各地で月の断裂が目撃されたことに言及しています。6  またハディースの諸本では、インドの王の到来と、彼と預言者との対面が記録されています。預言者ムハンマドの教友アブー・サイード・アル=フドリーは述べています:





“インドの王は預言者に生姜の瓶を贈呈しました。教友たちはその断片を食べ、私も一片を口にしました。7





従って、王は預言者に一度でも会ったことのある者、そしてムスリムとして死んだ者に付けられる称号である「教友」と見なされます。そして彼の名は、預言者の教友の1人として、膨大な史料の中に記録されているのです。8





夜の旅と昇天





マッカからマディーナへの移住の数ヶ月前、神はムハンマドを一夜にしてマッカのハラーム・モスクからエルサレムのアル=アクサー・モスクへとお連れになりました。それは1,230キロ、つまり通常のキャラバンで一月かかる距離でした。彼はエルサレムから諸天へと昇天し、物理的宇宙の境界を超えて神に謁見し、偉大なるみしるし(アル=アーヤ・アル=クブラー)を見たのです。彼の主張は二つの方法により真実であると確証されました。まず、「預言者が戻って来る際に追い越したキャラバンについて、それがどこにあったか、そしてマッカのどこに到着するかを説明し、それらは彼が言った通りの場所に到着しました。」9  次に、彼はそれ以前に一度もエルサレムに行ったことがありませんでしたが、懐疑者たちに対し、アル=アクサー・モスクがどのような場所であったかを正確に説明したのです。





 





 





 





 





この神秘的な旅はクルアーンにおいても記述されています:





かれに栄光あれ。そのしもべを、(マッカの)聖なるマスジドから、われが周囲を祝福した至遠の(エルサレムの)マスジドに、夜間、旅をさせた。わが種々の印を彼(ムハンマド)に示すためである。本当にかれこそは全聴にして全視であられる。(クルアーン171)





彼の見たことについて、あなたがたは彼と論争するのか。本当に彼(ムハンマド)は、再度の降下においても、かれ(ジブリール)を見たのである。(誰も越せない)涯にある、スィドラ木の傍で。そのそばに終の住まいの楽園がある。覆うものがスィドラ木をこんもりと覆う時。(かれの)視線は吸い寄せられ、また(不躾に)度を過ごすこともない。かれは確かに、主の最大の印を見たのである。(クルアーン5312〜18





またこの出来事における目撃証言は、信頼の置ける学者たちによる途切れることのない連続的な伝承経路を通しても同様に確証されています(ハディース・ムタワーティル)。10



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